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7、溺れる

宏の続きです


 あれから何時間経ったのか、それともまだほんの数分しか経っていないのか、時間の感覚がまるでなかった。時間だけじゃない、さっき起こった全てが曖昧にぼやけて、やっと悪夢は消えたのかもしれないと深く息を吐き出した。

 ドアを開けっ放しのまま玄関に座り込んでいた俺は、やっと顔を上げる。誰もいなくなったそこには、涼しい黒が夜遅くを告げていた。散らばったままのあいつの言葉が吹いてくる風で舞い上がって、俺の顔に当たって弾けた。

 ああ消えていなかった。悪夢は蘇る。



――そんな顔するなよ、お前の為なんだから


――最低だよお前




「宏! 嫌! 止めて!! いやぁ……」

 女の子特有の高めの叫び声が、小さな部屋に響き渡る。




 嫌だ。嫌だ。消えろ。消えろ。消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ

「あああああ……」

 口から溢れ出した音は、呻きにしかならなかった。


 気付いたら、電話をしていた。「もしもし、宏?」と言うふんわりとした佑月の声は、俺の心を少しだけ緩めた。

 何を話したのかは覚えがなかった。ただ頭の隅っこで、このことは好実に伝えないといけない、好実が危ないかもしれないと、そんな不安に駆られた。しかし佑月が「好実にだけ言ってもいい?」と言ってくれたから、きっと大丈夫だ。


 電話を切ってから次の日までの夜は長かった。

 目をつむると瞼の裏に、ふと気を許すと部屋の壁に、映像は映った。さっきの矢田とあの日の好実と野獣染みた俺。その度に腹の底は重くなり息は壊れ、気が狂いそうになる。

 何か違うことを必死で考えるしかなかった。幸運なことに俺は大学生だったから、勉強という逃げ道をその夜はひたすらに走った。


 集中力は突然に切れるもので、目を開くと昼過ぎだった。いつの間にか寝ていたらしい。スタンドライトと参考書の間で瞼がとろんとした。

――ああ直の遺体は焼かれたのか。もう戻れない。証拠は消えた。

 そんなことが頭を掠めたが、妙にふわふわした気持ちだった。久しぶりに熟睡したせいかもしれない。

 まるで水の中。外でどんなに騒がれようが、俺には心地よい水音しか聞こえない。


 インターホンが鳴って、ゆらゆらと玄関へ向かう。ガチャリとドアを開けると、佑月が立っていた。


「……一人になるの怖くて。来ちゃった」


 遠慮気味に笑った佑月は、申し訳なさそうに俺を見上げる。

「…………ああ、」

 奥へ入るように促し背を向けると、トテトテと小さな足音が続いた。



「あれ、勉強してたの?」

 つけっぱなしのままの電気スタンドと、その下に散らばる参考書達を見つけた佑月は意外そうな顔を俺に向けた。確かに、友人が殺されたと分かった次の日にすることではない。

「考えないようにしてた」

「ああ、」

 成る程ね、と優しく微笑むこの女は、いつもそうだ。無駄に介入しようとしないまま、人とうまくやる方法を知っている。

 俺は完全に仲間外れにされた後のこいつしか知らないけれど、仲間外れが原因でこいつがそれを習得できたのなら、人間はみんな一度は仲間外れにされるべきだと思う。


「……どうしてこうなっちゃったんだろう」


 ベッドに腰掛け、佑月はぽつりと呟いた。まるで見透かされているようで、剥き出しの腕がひやりとした。



――佑月ちゃんも、もう食ったんだろ

――最低な奴だよお前は



 なんの前触れもなくポンと飛び出したその幻影を、俺はキッと殺意を込めて睨みつける。

 違う。食ってなんかない。最低なんかじゃない。



――ヒントに、襲って泣かせた


――サイテーな奴だなお前は


――お前に対するイヤガラセの、ため



 止めろ止めろ止めろ。止めろ。

 そうだ俺は。佑月を襲っても襲ってなくても、俺は。

 変わらない。消えない。消えない。

 消えない。

「宏? 大丈夫?」

 俺を心配そうに見つめるその瞳が、さらりと揺れるその髪が、あの日と重なる。俺の心臓はきゅっと縮んで、狂おしい程に愛しい気持ちを思い出した。

 押さえられなかった、と言うよりも、それを思い出した瞬間に俺の中身は全て消えた。



 噛み付くようにキスをした。一瞬怯えたように見えたその身体から、次第に力が抜けていくのが分かる。舌の感触を確かめるように。口の中の温度が全く同じになるように。

 柔らかいその身体を包み込んで溢れさせ、上り詰めた頂に傷を付ける。真っ白い首元に吸い付いた跡が痣みたいにくっきりと、綺麗に赤く浮かび上がった。俺の物にならなくていい。だけど印は付けさせて。目を覚ました後で夢じゃなかったと分かるように。

「明日も来いよ」

 その言葉は誰に向けられたものだったのだろう。あの日出来なかった優しく滑らかな扱い。彼女の潤んだ瞳がさらに俺を欲情させる。何度でも抱きたいと思ったあの日。


 なんだか無償に泣きたくなって、よく似た華奢な身体を抱きしめた。



 佑月が家から出て行ってすぐ、寂しさに溺れた俺は李伊を呼び出した。




続、



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