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45、眺める


 優しい夜風が吹いている。誰も何も言わない真っさらな沈黙が停滞しているのに、嫌な気持ちにはならなかった。昔のあたしには到底耐えられるものではないだろう。ゆるい空気が視界をぼやかして、頭の中にあった何かの輪郭を無くした。あたしの頭はきっと寝ぼけているのだ。


 どれくらいの時間そうしていたのか分からない。不意に宏の声がした。

「え……と、これからどうする?」

 それはとても遠慮気味に発せられたものだったけれど、温くて緩い異空間のようなこの場に現実味を与えるには十分だった。パキッと世界が切り替わる。あたしの瞳に映るのは、澄んだ黒に浮かぶ薄黄色の月を背負った宏と、宏を見つめる李伊だった。

「ずっと此処にいるわけにはいかないだろ?」

 宏が続けて言葉を放つのを、あたしはただ眺めていた。口は一向に開こうとしなかった。ぱちりぱちりとまばたきの度に(まぶた)が降りて、すぐに上がる。瞼だけが必死に状況を理解したがっている。

 李伊の方に目を向けると、彼女は俯いてじっとしていた。ゆっくりとじんわりと、李伊の顔が歪んでゆくのが、重なる黒を通して見えた。唇が微かに動く。

「……下に降りたくない」

 李伊の声は呟くようで、少し震えてもいた。

「李伊……」

「降りたくない……やだぁ……」

 李伊は泣きそうだ。いや、もう泣いているのかもしれなかった。甘くて高めのその声に含まれているのは、悲しみでもなければ、もちろん甘えでもない。あたしの頭はまだ動かない。

「俺だってやだよ……」

 宏は必死に何かを堪えている。ねえどうしたの、泣かないで。

 空はどこまでもずっと黒くて、夜が明けるにはまだまだ時間がかかりそうだった。こんなにも分厚い時間が過ぎたのに、それでもまだ広大過ぎる空のカケラにも満たない。空に昇ったたくさんの人達の瞳に、あたし達はちゃんと映っているのだろうか。


「ゆつき」

 優しくて落ち着いた声があたしを呼んだ。

「立てる?」

「……ああ、」

 差し出された手につかまる。宏の手は大きくて温かくて、このまますっぽりと飲み込まれてしまいたいと思った。あたしの頭はまだ動かない。まだ動かない。

 ぐっ、と宏の手に力が入って、見える景色が高くなった。足が重くて、でも頭はふわふわと浮いてしまいそう。宏の手が離されると、支えを失ったあたしの体は、重心を見つけようともがいた。ふっと上を向く。黒は果てしなく遠くて、やっと重心を見つけたあたしはまたクラクラする。


 三人横に並んで扉へと向かう。硬いピンヒールはなんだか履く気になれなかったので、あたしは裸足のままだった。ざりざりと冷えたコンクリートの感触ばかりに気を取られていたせいで、あたし達を取り巻く異様な空気もあまり気にならなかった。真っ赤な靴はあたしの左手の揺れに合わせてブラブラと揺れている。


 宏がドアノブに手を掛ける。小さく悲鳴を上げながら開く扉は、錆び付いてペンキもはげ落ちていた。それは地上と空を繋いでいる唯一のもので、二つの空間に挟まれてとても窮屈そうに佇んでいる。


「え……なに、これ」


 外とは比べものにならないほどの閉め切られた黒の空間に、透明な空気が入り込む。あたし達の目に飛び込んできたものは、切れかけた蛍光灯の光を浴びて懸命に存在を主張していた。それは階段を上ってきた時にはあるはずのないものだった。無かったはずの液体と、無かったはずのにおい。李伊はすぐに目を背けた。宏は凝視している。

 あたしは手にぶら下げていたピンヒールに、砂を素早く払った足を突っ込んだ。

 ただ、気持ち悪いと思った。


 黄色みを帯びた白い液体にはまだ消化しきれていない何かがつぶつぶと混じり、誰かの胃の中がひっくり返されたように並々と溜まっているそれは、ドロドロと何段にも連なっていた。臭いは強烈で、あたしの胃の中もこんな臭いがするのかと考えるだけで吐き気がする。吐いたところでドロドロの仲間が量を増すだけなのだけれど。

「これ……矢田?」

 鼻を摘むあたし達に挟まれて、宏はぼそりと呟いた。しかめられた顔は何かを考えているようで、けれどすでに思考がストップしてしまったあたしには、宏が何を思っているのか見当もつかない。なんとか考えようと頭を動かすと、途端に息が出来なくなった。あたしがしてしまったことがじわじわと滲み出て来るから。――なんだっけ。あたしは人を、殺したんだっけ。


 胃の中のソレは階段を下りると共にだんだんと見えなくなって、少し早足のあたし達が鼻呼吸に戻そうかと油断した頃にまたあった。ウェ、という李伊の詰まった音に続いて、「もう嫌」と嘆く声は泣いていた。あたしは渇いた目を李伊には向けず、階段と階段を繋いでいる踊り場に汚らしくへばり付いている液体を見た。扉を開けてからもう二度も見ているのだ。鼻の代わりに息をすることを任され続けている口の入口が、悪い空気に侵されて粘り気を増している。今度はつぶつぶはあまり混じっていないようで、唾液のような胃液のようなぬるりとしたものが大半を占めていた。口に手を当てた状態の李伊の背中をさすっている宏の顔も、ひどく気分が悪そうだ。蛍光灯の薄白い光は真上から刺して、上を見るとあたし達が降りてきた階段のてっぺんは真っ黒に塗り潰された闇だった。空とは違って、そこには誰もいないのだ。このビルの中にはあたし達しかいないのだと思うと、途端に怖くなった。上ってきた時とは違う。何もかも。やっぱり暗闇って嫌い。世界から取り残されている気がして。果てしなく惨めな、気がして。


「ねえ、早く降りよう?」

 宏のTシャツの裾を摘んで発した声はあたしのものとは思えないほどに揺れていて、あああたしは泣くのかな、なんて思った。宏はふらつく李伊を支えながら一言、そうだね、と言ってくれた。




続、


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