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44、耳鳴り-6


「ちがうわよ」


 穏やかな昼間の大学内に舞う彼女の声は、少し投げやりな気がした。

「ほんの小さな悪戯だったのに。誰かが」

 彼女の言葉はそこで切れたから、僕と彼女の隣の男にはその先がまるで見えない。男が「え、何」と声を漏らすと同時に彼女は俯いた。彼女は嫌なことがあったに違いなかった。僕はそんな彼女を見ていられない。やっと宏雪から守ることが出来たのに、まだ彼女の中には何かが残っているのだ。消えないのだ。可哀相。そしてソレを軽々しく聞き出そうとする男を少し憎らしくも思った。


「誰かがあたしをハメたの」

「え?」


 真っ先に転がった僕の声が、彼女の顔を少しだけ上げさせた。彼女の瞳はちらりと僕の顔を確認すると、またすぐに地面へと視線を落とした。ぎゅっと閉じられた唇と強い視線が、明るいコンクリートを焼く。僕の頭は高三の時を見返している。


――彼女がいじめられていた?


 そんなことがあるはずがなかった。だって僕が見守っていた。高梨さんがやられていたようなことは、少なくとも彼女には起こっていないはずだ。

――僕の見ていない時に何かされていたのかもしれない。

 どうして気付いてあげれなかったんだ。僕は自分を責めた。胸が苦しいとはきっとこういう気持ちだ。


「何されたの」

 男が優しく聞く。彼女とはどういう関係なんだろう。彼女はしっかりと下を向いたまま口を開く。

「誰かが佑月……あたしが悪戯してた子なんだけど、その子にタチの悪い悪戯を加えたの。ずっとよ」

「え、別によくね? 悪戯仲間じゃん」

「最初はそう思うわよね。だからあたし、他にも佑月のことが嫌いな人いるんだって思ってた。でも誰がやってるかわかんないのがずっとだよ。しかもあたしの悪戯を酷くしたようなのばっかりだった」

 男がじっと彼女を見ている。僕は少しずつ渇き始める。彼女の口から溢れ出す言葉に取り残されて。

「みんなずっと、あたしがやってると思ってたんだと思う。……言わなかったけどね。グループの中であたしが一番佑月のことが嫌いだったから」

「竹下さんはやってないのに」

 零れた言葉は彼女の見つめる先に落ちて弾けた。コンクリートにぺたり。彼女の黒がぺたり。僕の足にくっついて来た運動靴は無意識に地面をこする。かすれた黒。黒。

 動悸はまだ静かだ。

 そうだよ、と男も口を開く。

「リイは悪くねぇのに」

 男がくしゃりと彼女の髪を撫でた。動かない彼女の綺麗な茶髪だけが、少し乱れた。

「あたしの仕業じゃないってちゃんと言ったし、みんなは分かってるって言ってくれたけど、みんながあたしからだんだん離れていってるのはすぐに気付いた。その悪戯ってどう見てもやり過ぎだったし、あたしの友達はそこまで性格ひねくれてないからさ」

 あたし、浮いてるように見えてたんだと思う、と彼女は口をたくさん動かした。声はさっきよりはっきりと聞こえるようだ。

 立ったままの僕を、緩くて優しい日差しがびかびかと照らしている。天気はとても良い。

「なんでリイがそんな目に合わなきゃいけねぇんだよ」

「知らないよ。あたしのことが嫌いだったんでしょ」

 違う、と思わず出てしまった誰かの音は大きくて、もう引き返せなかった。音は飛び散る一方だ。彼女と男の丸い瞳が僕を刺す。彼女は三回まばたきをした。息が出来ない。

「お前、……何?」

 男の声がうんと低く響く。眉間に寄せられたシワが窮屈そうに固まって、視線の定まらない僕を睨み続けている。

「僕はただ、竹下さんを……」

「あんただったの?」

 固まった言葉が僕にぶつかって、ぴくりと眉が反応する。僕じゃない。彼女を守ってきたんだ。僕じゃない。手助けをしたんだ。僕じゃない。僕じゃ……

「違う。僕は手助けを……」

「あたしの振りして佑月をいじめることが手助けなわけ?」

「お前……何やってくれてんだよ」

 軽蔑の目だった。目の前にいるはずの二人との間が開き過ぎて何も見えない。目印を無くした僕の身体は息をすることさえもおぼつかない。痛い。何が。胸が?身体が?頭が?

 僕の中にぽつぽつと残る言葉は崩れながらも、必死に喉を通りたがる。口は何度か意味なくパクパクと動いた後、ようやく錆び付いた音を奏でた。

「……宏雪はそんな僕を知ってたんだ」

「……は?」

 彼女は綺麗に整えられた眉を歪めた。声に合わせ、視界もかすれる。

「僕に仕返しをするために宏雪は竹下さんに手を出したんだ。僕はそのことを知って……」

「ちょっと待って」

 彼女は掌を僕に向けて、流れる言葉をせき止めた。

「何が言いたいの」


 彼女の声はとても遠くに感じるのに、僕の鼓膜に当たる振動は果てしなく大きかった。彼女の隣に居る男は何も言わず、異物を見るような目で僕を射る。

「宏雪は竹下さんを利用して――」



――僕は何を、言いたいんだっけ。



 あんたが手を回したのね、と冷たくて細い声が僕に向かう。速度が増す。速くなる。反応の仕方を忘れた僕を真っ直ぐ見つめて、彼女は泣きそうな顔をする。


「あたしは宏を愛してた。宏だってあたしを必要としてたの! なのにあんたのせいで全部壊れた! ……なんなのよ、あたしあんたに何かした?」

「違う、竹下さんは何もしてない。僕はただ……あの、」

「財布交換したことがそんなに特別だったの? そんなことでみんな……もう嫌!!」


 彼女のスイッチが切れた。切ったのは誰だ。僕はそいつを許さない。僕は。僕は。

 心臓が体の奥底に押し込まれてぐじゅぐじゅと音を立てる。僕はどこに向かっていたんだっけ。何のために生きているんだっけ。何をしていたんだっけ。



――佑月が嫌いだったの


――入れ替えさせて


――交換



 世界の色が消える。消える。消える。


「最っ低」


 彼女が吐き出す空気は、目の前の僕に全て当たった。浅くしか息を吸えない僕には、半分も飲み込めない。

 棒のような足がふらふらと重心を無くした。息が出来ない。壊れる。

――世界が壊れる。


「……あ、あの、僕はたけしたさんのこ……」

「失せろよ。二度と来んな」

 男の冷めた視線は僕に真っ直ぐに刺さって、ぐさりと音がした。鋭くて冷たい刃物は僕の体温では溶けそうにもなかった。夏の始めだというのに。


 僕は来た道を全速力で走っていた。ぐるぐる回る。何が起こった?息が壊れる。何が起こった?僕が。何が起こった?僕が。僕が。僕が。


――――僕の、せいで。



 背中で跳ねているスカスカのリュックに丁寧に入っているあの日の蝶々が、静かに笑うのを聞いた。



――覗いてたよね



 僕を見通している。

 黙れ。黙れよ。



 どんどん早くなる足音に、呼吸が追い付かない。壊れてしまえばいい。全部。もう僕は涙すら出ない。世界はバラバラに崩れ落ちる。闇だけになればいい。

 拒まれた番犬には残るものが何もない。


 息が壊れて、世界が壊れて、僕が壊れる。

 心臓が潰れるほどに痛いのは走っているせいだ。息が出来なくなるのを承知できつく閉じた唇がぶるぶると震えて、目の奥に熱い水を流し込む。





 彼女が、僕の世界だった。



続、


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