42、耳鳴り-4
それからしばらく経って、近くのコンビニで立ち読みをしている宏雪を見かけた。偶然にも程がある、と僕の持つワクワクが震えるのを感じた。
この世界のすべてを知る誰かが僕の背中を押しているのだ。
コンビニの窓から見える樹が揺れている。桃色の花びらは、もうほとんど若草色に変わっていた。これから来る暑さに備えるためだ。
「あ、宏雪」
僕が声をかけると、雑誌のページをめくる手を止め、音もなく振り向いた宏雪は、直、久しぶりだな、と笑った。
「こっちに帰って来てたんだ?」
「ああ、ちょっと用もあって。それはそうと、この前は悪かったな、晩飯行けなくて」
「いいよ、宏雪大変だったらしいし」
結局夕食は食べてないんだけど、とは言わなかった。
申し訳なさそうな宏雪の優しい声に、僕は悪戯な笑みを含めて返す。宏雪は肩をすくめた。
「知ってたのかよ」
「いずみさんが不満そうだったよ」
「ああ、四人で飯食いに行くの楽しみにしてたみたいだったからな」
柔らかい笑い声が僕らを包む。笑い声の終点で宏雪が見せた寂しそうな笑顔に、僕の口先が一番早く気付いた。宏雪がちらりと若草色の桜の樹に目をやるのを妨げるように、僕の口の動きは軽やかだった。
「それで、今はどうなの?」
「――え?」
桜の樹に気を取られかけていた宏雪は、少し遅れて僕に焦点を当てた。
「その彼女だよ、うまくいってるの?」
僕の言葉を最後まで丁寧に聞いた後、ああ、と一言零した宏雪の表情は読めない。というのも、表情が無かった。
「別れたよ」
さらりと吹く風音のようだった。どうして、とは聞かなかった。予想は当たったのだ。高梨さんが頑張ったんだなあと思った。
「そっか……なんかごめん、聞いちゃって」
「いや、いいよ。付き合ってたこともさ、直には言っとこうと思ってたんだけど」
ほら、お互い忙しかったじゃん、と締めた宏雪は、少し悔しそうに見えた。
――覗いてたよね?
ああ、そうか。
頭の隅で待機していたソレは、タイミングを見計らったように僕の視界をざらざらにした。纏わり付く。どうしようもないのだ。僕があの時ミスをしたから。
この世界の裏と表と光と陰。偽物と本物が入り交じって僕に語りかけるから。僕にはもうわからない。
彼女を奪った宏雪。僕に対する復讐の一部であった彼女に逃げられて悔しいのだ。僕が苦しみ、悲しむ姿を見れずに終わって、悔しいのだ。そうだ、そうに決まっている。
「あ、そういえば直、今いい映画とかある?」
ずずいと迫ってくる気まずさを敏感に察知した宏雪は、カランと声色と話題を楽なものへと変えた。
「んー、僕は今やってるのはあんまりいいと思わなかったな、でももうすぐすごい期待できるやつがあるんだ」
僕の頭は三日前に行った映画館に飛んだ。もうすぐ公開される映画のパネルがずらりと並んでいる中で一つ、僕の目にとまったパネルがあった。それは僕の中で間違いなくヒットを予感させるものであった。宏雪は僕がそう言うのを楽しそうに眺めて、じゃあ俺も見よっかな、と優しく笑った。
宏雪の笑顔が自然に見えすぎるから、固まっていたはずの僕は戸惑う。彼の表情と行動と考えていることの推測が、僕の中でうまく噛み合わなくて目を伏せた。どこまでこいつは僕を知っているんだろう。
ふと恐ろしく感じたから、勢いで攻めた。
「嶋さん、は?」
「え?」
「嶋さんだよ、高二の時仲良かった」
「……ああ、好実か」
「今でも仲良いんじゃないの?」
宏雪の笑顔がすうっと消えるのと反比例するように、コンビニにかかっている音楽が異様に明るくサビを迎えた。なぜか不安に押し負けていた僕は、宏雪のそんな顔でようやく息を吹き返す。
嫌な男だと、分かっている。これは彼女のためじゃない。彼女はもう救われた。僕が、救った。だから。
その先にあるこれはただの、自己愛でしかない。
「もう俺は、好実とは会わないと思う」
宏雪は呟くように、だけどしっかりと僕を見つめて言った。知覚されている、と感じさせる彼の眼差しは真っ直ぐ過ぎるから、少し苦手だ。なにもかも知られている気がして。
僕の悪戯も、僕が彼女から譲り受けた黒さも彼は初めから全部知っていて、全てを分かった上で僕の相手をしていたんじゃないかと思った。だからこんなに余裕があるのかもしれなかった。もうわからない。閉じた唇の中で、見えないように歯と歯に力を入れて空気をぎゅっと噛んだ。
「どうして?」
やっと開いた口で紡ぐ僕の返事はありきたりなものだったのだけれど、宏雪は少し言葉に詰まったようだった。
「俺が悪いんだ」
宏雪はそれしか言わなかった。僕もそれ以上聞かなかった。空が綺麗な日だった。
**
僕は大きく息を吸う。そしてその清々しい空気に体の中の熱と水分を含ませてから外へと吐き出した。僕の口から出た水蒸気は横から吹いて来た風に一瞬で蹴散らされ、跡形もなく消えた。起きてから何度めかの深呼吸。僕は柄にもなく緊張していた。
大学からの帰り道、僕の足は家とは違う方向に向く。背負ったリュックがいつもの何倍にも重く感じるのは、間違いなく彼女の蝶々のせいだった。
↓
続、