41、耳鳴り-3
考えはまとまっているようで全然まとまっていなかった。わからないことが多過ぎる。宏雪が何を考えているのか。何をしようとしているのか。嶋さんと宏雪の間に、そして高梨さんと宏雪の間に何があったのか。
彼女を助けてあげなきゃいけない。
最終的に僕の考えはそこにたどり着く。例え宏雪が仲の良い友達であったとしても、彼女の方が何倍も大事だ。彼女を傷つける奴は絶対に許さない。彼女は僕の世界だ。
「……あ」
気合いを入れて家を出た僕はある重要なことに気付いた。足が止まる。
「……宏雪のアパートってどこだよ……」
不覚だった。そして僕はそれを知る術を持っていなかった。
だが運のいいことに、宏雪の通う大学名を母親にもう一度聞くことで、僕は行く宛てを消失してしまわなくて済んだ。会える保証はなかったけれど、爪先が家の方を振り返ることはなかった。
緩く吹く風を抜けて僕の足はどんどん動く。ふわりと桃色の花びらが舞う。早くも柔らかい若草色の葉っぱが小さく咲いているのが目に映る。
穏やかな春の陽気とは正反対の僕の気持ちは、固く緊張していた。そして少し、興奮もしていた。
「……え?」
駅の少し手前の踏み切りで足止めを食らっている僕の隣に立っている人に気付いて、僕は思わず声を上げた。香水の匂いは変わっていないようで、ふわりと甘い香が鼻の奥を通っていつかの記憶に呼び掛けた。その声が思ったよりも大きかったのか、すぐ隣にいたその人は訝しげに僕を見る。そのくりっとした大きな目にはやはり見覚えがあった。
「……あ、畑上くん?」
僕が口を開くのを躊躇っていると、高梨さんの口が僕の名前を紡いだ。
「うん、」
「久しぶりだね」
事態が把握出来ない僕は小さく頷くだけだった。久しぶりと言えば久しぶりではある。高校を卒業して以来会っていなかったから。
でも、と思う。
久しぶり、なんて言葉は以前に少しでも関わりの会った人達の間で交わされる挨拶であって、高校時代に一度だって喋ったことのない僕には与えられるものではない。むしろ何故顔も名前までも覚えていてくれたのか不思議だった。
そんな表情は簡単に外に出ていたらしく、高梨さんは緩く笑みを作って「話したことなかったもんね」と言葉を飛ばした。
「あたしさ、畑上くんと話したいってちょっと思ってたんだよね」
「……え?」
僕の喉はまだ文章を作っていなかった。脳が追い付いていないのだ。
目の前を電車が通り過ぎる。風が高梨さんの柔らかそうな髪を後ろに流した。
「宏がね、畑上くんのこと話してくれたから」
――覗いてたよね?
嶋さんの鋭い言葉が、高梨さんの優しくてふわりとした雰囲気に飲み込まれそうになっていた僕を掴んで乱暴に引きはがす。そのお陰で、僕は思い出した。ぐん、と見方が冷静になる。
僕がどんな人かなんて、知っているくせに。地味で目立たなくて、その上悪戯までするわけのわからない男だと思っているんだ。宏雪も言ったんだろう、昔は良い奴だった、とか。あんなことをする奴だとは思っていなかったけど、最低な奴だったんだね、もう関わらない方がいい、とか。
「……じゃあ関わらない方がいいんじゃない?」
突然の僕の発言に、高梨さんはキョトンとした。
「え? どうして?」
「いや、どうしてそれで僕と話したいなんて思うのかなと思って」
――僕と話したって君は気分を害するだけだろうに。今更何を。
「それはあたしの勝手じゃない」
高梨さんは可笑しそうに笑った。僕がそうだね、と言うと同時に遮断機が上がった。
高梨さんも駅へ向かう途中らしく、僕たちは並んで歩いた。
「宏雪ね、畑上くんのこと良い奴だって言ってたよ」
――昔は、だろ。
良い奴、と言われていた頃の僕を知らない高梨さんは信じられないのだろう。僕と話をすることで、直接確認したかったのかもしれない。何かに縛られたような僕の心は微塵も揺らがない。どんどん硬くなる心を覆い隠すように、表情は穏やかであった。なんだか探り合いのようだ、と柄にもなくワクワクした。
「そう? 高梨さんは宏雪と仲良かったもんね」
「うん、でも卒業してから連絡してないんだけどね」
「そうなんだ? どうして?」
「あたし今結構大変なのよね、宏も大学入ってすぐじゃない? 忙しかったら迷惑かなって思って」
「ふうん」
僕は考えを巡らせた。
高梨さんは宏雪と彼女が付き合っていることを知らないらしい。いつでも高校時代の関係に戻れると、宏雪の隣が今も自分に与えられていると、そう思っているに違いなかった。そしてそれは、僕にとってとても都合の良いことであった。
「宏雪も連絡して欲しいんじゃないかな。自分からは言い出せない奴だから、頼ってやってよ」
そう言って僕はあまり使い慣れていない笑顔を作る。もう駅は目の前に迫っていた。
「そうかな、ありがとう」
高梨さんは嬉しそうに笑う。そしてにこにこしたまま僕に別れを告げ、足取り軽く反対のホームへと歩いて行った。その表情は、完全に僕を許していた。
――勝った。
高梨さんの姿が見えなくなるのを確認するや否や、ぬるりと這い出る心からの笑顔。僕は満足感に満ちていた。
高梨さんが上手くやってくれれば宏雪が揺らぐ、という予想には、かなりの自信があった。そして宏雪に騙されていた彼女はようやく開放されるのだ。
僕はヒーローだ、なんて、さすがにそこまでは言えないとしても、番犬くらいの地位は与えて欲しいと思った。彼女の知らないところで必死に働く。餌を与えられなくても、雨風を防ぐための小屋がなくても、それが苦であるはずがなかった。彼女に対する秘めた恋心を咎められない、というそれだけで、十分過ぎる報酬であった。
僕はしばらく立ち止まった後くるりと回って、さっき高梨さんと歩いて来た道のりを躊躇うことなく引き返す。
彼女も開放されてからの方が、僕と会いやすいだろう。膨らむ気持ちに笑いかけながら、春の陽気を体で浴びた。
↓
続、