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40、耳鳴り-2


「ね、しかたないわよね」

 母親の穏やかな表情に押され、僕は少ししょげた顔をする。正直なところ、別に宏雪と特別会いたいとか話したいとかそういうのは全然ないし、どっちでもいい。でも宏雪がいない今、やっぱりこの場に僕は要らない気がする。

 窓を開ける。外はもう暗くて、春だとはいえまだ冷たい風が雑音と混ざって僕を巻いた。中で鳴る母親二人の話し声は、薄いガラスの壁を隔てているようにぼんやりとしている。


「それにしても宏くんに彼女なんて久しぶりに聞いたわ」

 そんな母親の声が耳に触れた。確かに、中学の時には何度か聞いていたカノジョの話も、高校に入学した後からぱったりと聞かなくなったが、それは多分僕と宏雪の距離のせいだと、自然と思っていた。

「そうでしょ、だから私嬉しくて。春休みに一回家に連れて来たんだけどね、それが結構可愛い子なのよ」


「――ん?」

 僕の音は外から流れ込む雑音に負けた。


――春休み?


 窓の外で流れていく景色に向けていた目を車中へと戻す。母親の頭といずみさんの横顔が楽しそうに揺れている。


「大学の子じゃないの?」

「ううん、高校の時の子だって」

「へえ、じゃ直も知ってる子かも」

 あ、そうだね、ねえ直くん、と僕を振り返るいずみさんを、僕は無意識のうちに凝視していた。

 嶋さんでしょ、と意識的に僕の中の僕は口を揃えて言う。そんなこと知ってるよ、と。胸が甘いような酸っぱいようなごちゃごちゃしたもので埋まっていく。なんとなく、息を止めた。


「りーちゃんって知ってる?」


「りーちゃん?」

 眉間にシワを寄せる僕をちらと見て、母親は僕の知らない人だと思ったようだ。実際、そんなあだ名の人は何人かいた気がする。

「名前なんていうの?」

 僕に代わって、母親が聞いた。

「だから、りー」

「りー? 外国の子?」

「違う違う。り、い」

「へー、りい? 珍しい名前ね」

「そうよね、私も初めて聞いた時は呼び名で通されてると思ったわ」

 あははといずみさんは笑った。


 僕の視界がぼやける。夜の景色が流れる。風が、流れる。




――宏雪って嶋さんと仲良いよね

――まあな


――ユツキが嫌いだったの


――交換


――覗いてたよね?



 流れる。流れる。流れる。回る。回る。回る。

 僕は吐いた。



 急いで車は家まで引き返し、僕はトイレで吐き続けた。まだ夕食を食べる前だったから吐くものはあまりないはずなのに、胃液が迫り上げてくるのは止めようがなかった。食道が生温くて苦くて酸っぱい。体の中から逆流してくる少量のそれは、便器の中に黄色く沈んだ。ハアハアと暴れる大きくて荒い息と、鼻の奥に広がるどろどろのにおいと、便器の中の濁った水。口の中の唾液はだらりと垂れた。気分が最高に悪かった。


 宏雪が彼女と恋人同士。どうして?いつから?そもそも宏雪は嶋さんに気があったんじゃなかったのか。嶋さんと仲が良かったんじゃなかったのか。


「……あ、」


――宏雪からなんか聞いてない?



 高二の三学期の中頃だったと思う、陽くんがいきなり話し掛けてきたことを思い出した。

「……え?」

 特に誰とも会話をしていなかったところへ急に飛び込まれると、思うように声が出ないものだ。掠れた声で何とか反応すると、陽くんは僕の机の正面にしゃがんで「おかしいんだよな」と唸った。

 陽くんは宏雪と仲の良い友達で、地味な僕にも理解をくれ、いつの間にか「友達」の位置に滑り込んで来た変わり者であった。社交的でありながらしっかりと自分を持っているこの人を、僕は一生嫌いにならないと思う。

「三学期に入ってから、好実と全く関わってねえんだよあいつ」

 陽くんは僕の机に顎を乗せ、難しそうな顔をした。僕はその頃高梨さんへの悪戯を始めたばかりで、考えることに夢中だったから気にしなかったのだけれど、よく考えたらここ最近二人が話しているのを見ていない気がする。

「喧嘩でもしたのかな」

「今まであんなに一緒にいたのにさ、なんか避けてるんだよな」

 僕がふうん、と言うと、佑月ちゃんに乗り換えたのかな、と陽くんは軽く笑った。


――覗いてたよね?


 突然なんの前触れもなく、嶋さんの真っすぐな視線が僕を捕らえる。僕は小さく頭を振った。たまに飛んでくるざわりとした嫌な感じをこうして振り切って、僕は毎日を過ごしていた。

「嘘だよ、佑月ちゃんを助けてるのはあいつのお節介だろ」

「……あ、そうじゃなくて、」

 僕が首を振るのを見た陽くんは直ぐさまからからと訂正した。

「良い奴だからな、宏雪は」

「うん」

 君もだよ、と言いたかった。


 宏雪は嶋さんと何かあったんだろうか。あんなに嶋さんに好意を抱いているようだった宏雪を、一瞬で変えてしまうような何かが。そして嶋さんと距離を取ると同時に高梨さんに向けられる同情。


 ……荒れていた?


 吐き気は荒い息に取って代わっていた。身体が興奮してきているのがわかる。


――覗いてたよね?


 嶋さんはあの時、きっと分かっていた。僕がやったと。

 嶋さんが高梨さんに教えたんだ。そして高梨さんに構い初めたのは宏雪の気の迷いだったとしても、優しくされた高梨さんが宏雪にそれを話すのは十分に有り得る。僕と会おうとしないのもきっとそれが原因だ。軽蔑しているのだ。

 そして卒業と共に彼女に手を出した。ふっ切ることが苦手な宏雪だから、まだ心のどこかで嶋さんに気があることは確かだろうし、高梨さんへの同情も消えてはいないだろう。その状況で宏雪が竹下李伊に好意を抱くようには、どうしても思えない。例え彼女からアプローチを受けたとしても、だ。彼女達のグループが宏雪や陽くんのことを話題にすることはよくあることだったから、彼女が宏雪に好意を寄せることも十分に考えられた。

 が。

 彼女達が高梨さんに散々悪戯をしてきたのはクラス全員が知っている。宏雪が高梨さんを助けたということは、彼女と同じ方向を向くことはないはずなのだ。


 僕に対する復讐か?

 彼女に何かする気か?

 ただ荒れているだけか?


 僕はゆっくりと立ち上がり、水を流した。ジャアアと勢いよく流れて、沈澱物は一瞬で消えた。



 確認無しには進めない。そう思った僕は宏雪と顔を合わせようと決意した。



続、



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