39、耳鳴り-1
それからというもの、僕は定期的に僕の中の黒を浄化させることに努めた。罪悪感はなかった。そんなものよりも彼女の為に動いているという事実が嬉しく、そして僕は彼女に残る黒をさらに吸い込む。浄化しているはずなのにどんどん膨れる黒に気付いたけれど、きっと彼女から新たに僕に手渡されたものだと思い直した。
僕は彼女と共有しているものがあるのだ。
三年生になっても、彼女とクラスは同じだった。残念なことに高梨さんは違うクラスだったから、僕の悪戯は頻度が落ちたけれど、なんとか継続はしていた。
そのうち彼女が高梨さんに悪戯をすることはなくなり、ついに彼女の黒は僕に全て移ったのだと悟った。
嬉しさは跳びはねてきらきらと光る。
自然と口の端が上がってゆくのを、必死で押さえ付ける。ふと気を許すと笑ってしまうから。
僕の中に残る黒を浄化する作業がもう少し続いている間に、彼女はもう大学受験の準備に取り掛かっているのか、休み時間も自分の机で参考書だったり文庫本だったりを読むようになっていた。
――彼女と同じ大学に行けたら。
我慢していた笑いがすき間からぬるりと這い出て、思わず顔が緩んだ。彼女と同じ大学に行けたら、今度は僕から話し掛けよう。きっとあの時と同じように力強い瞳で笑うんだ。まるで今朝見た夢のように、映像は僕の頭の大半を使って鮮明に保存されていた。彼女の睫毛が揺れる。ふっくらとした唇が滑らかに動く。どうか彼女の目指す大学が女子大ではありませんように、と強く祈った。
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四月。僕は彼女が目指していた公立の大学に入学した。席が近い宏雪と彼女が進路の話をしているのをたまたま聞くことができた僕は、本当に運が良いと感激したものだ。
だけど。
彼女はそこにはいなかった。
そう、彼女は試験に受からなかったのだ。これでは意味がないじゃないかと僕は深く落ち込んだ。
「あ、」
見知った顔が目の前を横切った。日に焼けた精悍な顔つき。短かった髪は少し伸びているようだ。僕が小さな声を上げた後何メートルか進んで、矢田くんはおもむろに振り返った。
当然のように今まで一度だって喋ったことはなかったから、僕はただ立っていることしかできなかったのだけれど、矢田くんは「ああ、」と思い出したように声を上げた。同じクラスでもなかった僕の存在が知られていたんだと思うと、なんだか少しだけくすぐったい。
「宏雪と仲良かった奴だ」
そう言って僕の位置まで引き返す矢田くんは、自然で飾らない穏やかな笑みを浮かべる。こんな風に笑えたら、と思った。
「宏雪も進学したんだっけ?」
「うん、そう言ってたと思う」
――母親が。
宏くんがどこどこの大学に合格したらしいわよ、と僕の大学合格通知の封を勝手に開けながら母親は言った。へえよかったね、と返す僕の言葉を遮って、そうだ、今度いずみと宏くんと四人でご飯に行こうか、と母親は嬉しそうにする。いずみというのは宏雪の母親であり、僕の母親の仲の良い友達でもあった。幼い頃には頻繁に宏雪の家に行っていたし、いずみさんがうちに来ることも何度かあったから、僕の面倒もよく見てくれた。何と言うかすっとしたシャープな人で、僕の母親とは真逆だと記憶していた。
結局いずみさんが忙しいという理由でそのイベントは先送りとなったのだが、イベント好きな母親はいつになるか分からないその予定を楽しみにしているようだった。
宏雪とは卒業してから会っていなかった。元々改まって会うなんてことは滅多になかったから、たまたま会った時に話すぐらいなのだけれど、僕は周りから見たらそんなに宏雪と仲の良い奴なのだろうか。僕が学校であまり人と会話をしないからかもしれない。
「へえそっか、どこ大学?」
「ええと……どこって言ってたかな、国立だったはずだけど」
「へえー」
三年間一度も同じクラスになったことのない僕たちに、共通の話題っていうのは宏雪の話ぐらいしかなかった。そんな他人の僕に矢田くんはにこにこと笑顔を振り掛ける。この人は一体何を考えているんだろう。何を求めているんだろう。僕には彼のような人が分からない。あまり分かりたいとも思わないのだけれど。
結局その後は取って付けた様に当たり障りのない会話をして、矢田くんとは別れた。
連絡が入ったのはそれから少し経った頃だった。家に帰ると母親はまるでワクワクが音になったような声で僕に日にちを告げた。
「四人でご飯なんていつぶりかしら」
母親が車のエンジンをかけながら独り言のようにぼんやりと放つ言葉は、とろりと僕の頭に溶けて、幼い頃はよくこういうことがあったなと思い出した。
懐かしさは生温い。そして現実より少し甘い。そんな思いに浸る前に、車は宏雪の家の前で停車した。母親が車から降りてインターホンを押すと、しばらくしていずみさんが出て来るのが見えた。相変わらず頭のキレそうな顔だと思った。宏雪のしゅっとした顔つきは母親似だ。
助手席のドアが開けられて、母親といずみさんの跳ねた会話がクリアになる。いずみさんは助手席に収まると同時にくるんと僕を見て、直くん久しぶりねえと笑った。
「宏雪は?」
いずみさんに、というより、バタンと車のドアを閉めた母親に向けるようにして発したそれに、いずみさんは呆れたようなため息で返した。
「あの子今一人暮らししててね、ちょうど帰ってくるって言ってたんだけど」
「彼女が熱出しちゃったんだからしかたないわよ」
「そうかな、わざわざあの子が行く程のこと?」
穏やかに続きを紡ぐ母親に口を尖らせて反応するいずみさんは、僕が幼い頃から歳をとってないようだ。あの頃から、お母さん、という感じをまるで与えない。
「宏くんの彼女も一人暮らしなんでしょう? そりゃあ行くわよ」
ね、しかたないわよね、残念だけど、と母親は広い後方座席に一人座る僕を振り返った。僕の耳はざわりとした。
↓
続、