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38、まどろむ-4


 うちの近くの土手を、僕はそろそろと下っていた。そこの川は、流れているというよりも溜まっている、という方が表現としてピンとくる程のもので、家から流れる洗剤の泡や工場からの油や使い終わった後の煙草なんかが、ぎゅうぎゅうに押し合って存在していた。広く浮いた油が作るマーブル模様が僕を笑うかのようにてらてらと光るから、そこら辺にあった石ころをぽちゃんと投げ入れた。マーブル模様が崩れて、余計に複雑な形になるのが小気味よくて、僕はもう一度投げた。石ころが水面を叩く音が、まだ薄暗い神聖な朝の空気に当たって響く。僕の手が摘んでいる真っ白がこれから、彼女の心に溜まって消えない黒に染まるのだ。彼女の黒を吸い取り、この白い布地に移す。僕が。この僕が、彼女のためになる。

 マフラーを垂れないようにぎゅっと結び、袖を出来るだけ捲くり上げ、淵にしゃがんで白を突っ込んだ。濁ったオーロラに白い爪先の部分が隠れた時には既に、白の先にどろりとした黒が纏わり付く感覚があった。水の深さは全くないようだ。ずぶずぶと黒に押し込み、てらてら光る川面が摘んだ指先の少し手前に迫ったところで推進を止めた。手首を動かしてそのまま何回か泳がせる。へばり付く黒が重くて、手から離れてしまわないように人差し指と親指により力を込める。いつの間にか緩やかに流れてきていた粗い泡がしゃらりと指先に当たったから、僕の顔は思わず苦い表情を作った。ゴム手袋をしてこればよかったと後悔した。

 人通りが少ない場所を見つけたから、痛々しい視線を浴びせられないで済んだのには助かった。こんなところを見られたら「間違って上靴を落としちゃったんです」としか言いようがない。わざわざ橋の下で落とす馬鹿はいないとは思うが。

 そろそろ腕がだるくなってきたので、すっかり重くなった布製の靴をそうっと引き上げる。プーンと臭う独特の刺激臭が鼻を直接突いて、吐きそうになった。ぼたぼたと垂れるヘドロが川の淵に敷かれたコンクリートのブロックを汚して、僕の薄汚れた運動靴にもぺとりと落ちた。黒のドロドロでコーティングされた布を右手で摘んだまま、家から持ってきたビニール袋を取り出して中に入れた。ビニール袋の入口付近にも、ヘドロはべったりと付いたために、ぬるりとしたその感触は指先の神経にも伝わった。

 ビニール袋の持ち手部分をきっちりと結んでも、嫌な臭いは僕にしつこく擦り寄る。きっと僕自身が臭いのだ。すうっと冷たい空気によって固められた僕のにおいは、周りに溶け出て後を引く。


 誰よりも早く学校に着いたと思ったのだけれど、部活をしている人達には敵わないようで、学校の外周りを走っている陸上部員達数人に嫌な顔をされながら、僕は下駄箱にたどり着いた。

 きちんと洗ってもまだ微かに嫌なにおいの残る指先で袋の口を解く。閉じ込められていた彼女のもやもやは一気に溢れ出て、辺りを駆け回った。そろりと覗き込むと、その中はぐちゃぐちゃで、黒にまみれたそれはもうなんだかわからない。ヘドロの塊の端っこに何とかくっついている白を摘んで、昨日確認したスペースにひとつずつ丁寧に置いた。続けて袋に残っているべったりとした黒をその上から振り掛ける。

「あ、」

 臭いの元が地面に降って弾けた。彼女のスペースの真下だ。彼女の足ににおいが移るのはさすがに避けたいと思った。くたびれた運動靴で一応揉み消したけれど、黒く掠れた跡をみて、僕は溜め息をついた。


 足早に教室のドアを開けると、クラスメートは誰もいなかった。机に鞄を置いて、凍りそうに冷たい水で手を洗う。やっぱりまだ下水のような臭いがする。中身を出し切ったビニール袋は下駄箱の近くのごみ箱に捨てたから臭いの元からは離れたはずなのに、どうやら僕の鼻の奥に染み付いた残り香が回っているらしい。気分が悪かった。

 登校してくる時間は分かっていたから、僕は反応を確かめるべくなるべく遠くから下駄箱を見ることにした。階段のかげに隠れていると、さらりと髪を揺らしながら歩いてくるのが見えた。

「来た」

 どんな反応をするのか、と僕はわくわくと早くなる鼓動を必死で押さえ、じっと息を潜めた。下駄箱を見つめた高梨さんは動かない。微塵も。高梨さんがどんな表情をしているのか、今何を考えているのか分からなくて、僕は身を乗り出して焦れた。何人かが僕の横を通り過ぎてゆくけれど、誰も僕を気にかけるそぶりを見せなかった。彼らの目にはきっと僕なんか映っていないんだ。

 僕は今までずっと、地味で冴えない存在だった。そんな境遇で気の弱い人は基本的にいじめの標的になりがちなのだろうが、僕はそんな中心にもなったことはなかった。人当たりのいい宏雪と仲が良かったせいもあるとは思うが、意識の中にすら入れてくれていないんだと思う。この世界はそんなものだ。


 ふと気が付くと、固まっている高梨さんに動きがあった。高梨さんに話掛けているのは矢田くんと嶋さんだ。何か良い反応をしてくれるかと思ったけれど、僕の期待とは裏腹になんだか穏やかになりつつあった。がっかりした僕はハッとする。彼女の黒は僕に移ったのだ。彼女の代わりに僕が黒を浄化させるべきなのだ。鼻の奥に薄れゆくさっきの臭いが(よみがえ)ったけれど、悪い気分ではなかった。

 階段のかげから身を乗り出したままふわりと優しい気持ちになって、もう一度ターゲットの方に目を向ける。

 僕は顔をしかめた。

 じっとこっちを見ている嶋さんが遠くにいた。反射的に僕は後ろを振り返る。当たり前だけど、誰もいなかった。嶋さんの視界に、僕は入ってしまっていた。

 急いで身を隠した。急に認識されていることを知らされて、素直に驚いた心臓が静かに唸っているのが分かる。彼女と同じグループの一人が立ち尽くしている僕の横をすっと通ったけれど、やっぱり何も言わなかった。意味もなく戸惑う頭を引き連れて、僕は教室へと戻った。



 教室は少しだけざわめいていた。彼女達はいつもに増して大きな声で話している。まるで「あたし等はやってない」と主張しているようだ。僕も是非「その通りだ!」と加勢したかったが、なんだこいつどこから湧いて出たのか、というクラスメートの冷めた視線が飛び交うのは目に見えていたから、大人しく頷くだけにした。彼女はやってない。彼女の黒を譲り受けた僕こそがすべきことだからだ。そしてそれは、内密に行うことによって、意味を成すのだ。


「ねえ」

 聞き慣れない声質が、僕を突いた。

「あんたさっき階段のところにいた?」


 僕は声のする方にゆっくりと顔を向けた。声の主はさっきと同じように真っ直ぐに僕を見る。純粋にぶつけられた言葉は、すんなりと耳に入った。

「わたしあんまり目よくないから間違ってるかもしれないんだけど一応」

 僕が口を動かさずにいると、嶋さんは続けた。

「覗いてたよね?」



「何のこと?」


 僕はキョトンとする。僕は今まで図書室にいたのだ。嶋さんはそう言う僕の目をじっと見た後、さっと僕の全身に視線を這わせてから、ふうんと言った。

 嫌な間だった。


 嶋さんが僕の席を離れると同時に、冷たい空気が流れたのを、僕の肌は敏感に捕らえて離さなかった。



続、



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