37、まどろむ-3
「はい」
僕の目の前に突き出された財布は僕のものではなく、さっき僕がこの手で拾い上げた、彼女の財布だった。
「え、と、あの、これ、」
大きすぎて飲み込めない突然の出来事が口の前で邪魔をして、言葉が上手く出てこない。必死に戸惑いの言葉を発する僕のガラス越しの瞳をじっと見つめた後、彼女はふっと笑った。
「大丈夫、中身は盗ってないから全部前のままだよ」
「でもこれ、」
竹下さんのだよ、と僕が言い終わる前に、彼女は滑らかな口調で返事をくれた。
「あたしの財布さ、盗られたことになってるから、もう使えないんだよね」
「え、ああ、……え?」
簡単に僕たちの周りを包む冷たい空気に溶けてゆく彼女の澄んだ声にはどこにも刺がなくて、だから気をつけていないとするすると脳みそのすき間から抜け出て行ってしまう。僕は一度通り抜けたその言葉を、やっとの思いで引き戻した。本当は彼女の喉が唄う言葉は全て保存しておきたいのだけれど、本来なら遠くで見ているだけの彼女が目の前に立っている、僕に届かせる為の言葉を吐いている、という現実が未だにふわふわと揺れて、重要な単語を流れないように留めているので精一杯だった。
吹いてくる風が低い音を立てて耳の奥を震わせる。まだ蓋も開けられずに僕の手の中にあるペットボトルの温かさは、もう微かに感じられる程だ。「寒いから移動しない?」という彼女の突然の提案に、寒がりの僕は何度も首を縦に振った。
体育館の陰に移動した僕たちは、風が吹かないだけでこんなにも寒さが和らぐものなんだと実感した。この寒い中、風を遮るものが何もない吹きっさらしの中庭にわざわざ来る人というのはどうやら僕たちだけのようで、ガタイの大きい自販機がぽつんと寒さに耐え忍ぶ様子を振り返り、少し寂しさを感じた。
「でさ」
彼女は寒いのか、両手を擦り合わせながら続ける。細くて長い彼女の指は、少し力を加えるとすぐに折れてしまいそうだ。
「うん」
「あたしの財布と体操服、盗られたことになってるんだよね」
もう一度言い直す彼女の事情もまた、するりとここから逃げたがった。大きく頑丈な体育館によって風が遮られて空気があまり動かないために、その声はゆるゆると漂っているだけだったから、さっきよりも簡単に引き止めることができた。
「どうして?」
聞いてもいいものかと躊躇ったが、彼女は純粋に疑問文を欲しがっているんじゃないかと思った。それを聞いた彼女は口角を引き上げて僕を見た。
僕はわけが分かっていなかった。どうして今まで関わったことのない、遥か遠くで輝いていたはずの彼女の相手が今、僕なのか。どうしてこんなに長い間、僕はこの空間に立っていられるのか。
きっと全部夢なんだろうな、と思った。
「ユツキが嫌いだったの」
彼女の唇で弾かれてキラキラと尖ったそれは、目の前の僕にさらさらと降り懸かり、なんとか返事をしようと口を開けた僕の体内にもカケラは舞い込んだ。僕は彼女のカケラを飲み込むべく、開けた口を閉じる。
「だからソレをあたしが持ってたらマズイのよ」
分かるでしょ、と言いたそうな瞳の輝きに圧倒されて、僕はそうだね、とだけ答えた。
彼女は高梨さんが嫌いだったんだ。きっとずっとその小さな体の中で、嫌な気持ちが渦巻いていたんだ。人を嫌いになるのはとても息苦しいことで、それだけで体が重くなる。かわいそうな彼女。でもこれで彼女の中の黒いドロドロが少しでも晴れたのなら良かった、と固まりかけた心を撫で下ろした。
そういうことだから、と言ってくるりと向きを変える彼女に、僕はえ、と声を漏らした。その呟きは彼女まで真っ直ぐに飛んで、少し離れた彼女はもう一度僕の方に向き直った。
「交換」
ビシッ、と人差し指で僕を指して、彼女は最後にニッと笑った。颯爽と校舎に向かって歩く彼女の後ろ姿はやっぱり綺麗で、短いスカートと黒い髪がひらひらと、さらさらと靡いた。そうして僕の手にはラインストーンを付けた蝶々が口を付けられていないお茶と共に残った。
*
休みの前の日がどれだけ信じ難く光に包まれていたとしても、二週間というのはやっぱり酷く億劫だった。机の引き出しの中に丁寧にしまわれたワインレッドの蝶々を見る度、僕は彼女の目を見て話をしたことを鮮明に思い出す。それはいつ思い出しても全く現実味が無くて、記憶違いかもしれないと僕は自分が怖くなる。彼女を思い過ぎてついに記憶まで捕われてしまったのか、と。幻の蝶々がいついなくなってしまうのか、確認し続けているうちに冬休みは終わった。
新鮮な朝の教室に触れた僕の視界は、休み前より鮮やかになっているのに気付いた。それは彼女と小さな秘密を共有したという、小さな僕では抑え切れない進歩のせいだろう。彼女達は休み前となんら変わりなく塊になって喋っていた。彼女の横顔は楽しそうで、それを見た僕の目も自然と細まった。ちらと自分の鞄に目をやる。昔使っていたくたびれた財布が目に映る。これと全く同じ使い方をした僕の財布が彼女の鞄に入っているのだと思うと、それだけで世界の色がくっきりと見えるようだった。彼女と僕は、二人だけで共有しているものがあるのだ。
机の周りできゃいきゃいとはしゃいでいた彼女達は、まだ主人がいない空っぽの席へと移動していた。そこは確か、ああそうだ、彼女が嫌いだと言っていた高梨さんの席だ。
楽しそうに高梨さんの椅子だけを抜き取り、教室の隅にがたんと置いた。僕は何とも思わなかったし、教室にいた何人かのクラスメート達も、ちらりと見るだけで、気にしていないようだ。ただ、彼女の胸にはまだ高梨さんに対しての黒い何かが残っているのだと知って、僕はまた少し、かわいそうに思った。
高梨さんに対する小さな意地悪が続くのと同じようにして、僕の彼女に対する同情も、日に日に増していった。彼女はまだ晴れない。彼女は晴れない。まだ。僕は思い付いた。
↓
続、