36、まどろむ-2
事態が動いたのは二学期の終業式だった。
「はあマジで?! なんなのあいつ!」
朝早く清々しい空気を纏う教室に、キンキン声がひびを入れた。教室にはあまり人はいなくて、僕を含む数人が、一斉に声の発信元を確認した。
「財布盗むとかマジないわ」
「っていうか李伊の体操服盗って何すんのかな」
「売るんじゃね」
「うっわ、引く」
この教室の中で元々喋っていたのは彼女達のグループを除くとほんの数人だけだったから、一度静まった空間を言葉で埋めるのは至難の技だった。ぱらぱらと寂しく舞う声を押しのけて、彼女達の力強い声は透明な朝の空気をどんどん巻き込む。彼女は盗難にあったのだ。僕は泣きそうになった。
可哀相。かわいそう。僕に何か出来ることがあればいいのだけれど、彼女達の中ではもうすでに犯人は見つけているようだし、財布を無くしたからといって、関わりのない僕から同じデザインの財布をプレゼントされてもきっと迷惑だ。それこそ気持ち悪いストーカーに成り兼ねない。じゃあ彼女には何が必要だろう。僕には何が、出来るだろう。
彼女は何を欲しているのか、それを考え始めたとき、僕の薄暗い毎日に差し込む光の量は少しだけ増えた気がした。
時間が進むと共に教室にはどんどん人が増えて、彼女達のグループの一人である高梨さんが登校してきた。彼女達の声は、クラスメートのお喋りを燃料にしてどんどん膨らむ。音量はさっきより数段増していた。
会話のところどころでキャハハと甲高い笑い声が弾ける度に、彼女は緩い笑みを浮かべているようでホッとした。彼女の席より僕の席の方が前にあったら、ちゃんと正面から見れたのに。でもわざわざ振り返って見るのも気が引けるだろうなとも思った。
「畑上のこともさあ、ホントは好きなんじゃん?」
彼女のうちの一人が目一杯毒を込めた言い方で声を張り上げた。この教室に存在している僕は僕であって僕ではないと思っていた。ぼんやりと、教室に拡散され薄くなったその言葉を眺める。ぶれていた思考と薄暗い感覚が重なる。輪郭がくっきりとするのを感じて、小さく微笑んだ。
――僕は彼女に知覚されていたのだ。
「マジ?それはなくない?」
「ほら佑月黙ってんじゃん。絶対好きなんだって」
後の会話はどうだってよかった。僕は知覚されている。僕は彼女と同じ世界に、ちゃんと存在している。
人は他人の見ているものが分からない。だから自分の見ている世界が他の人のそれであるかどうか、僕たちは知る術を持たない。だから言葉を交わして、身体で触れて、存在を確認し合うのだ。そして僕はたった今、彼女達の口から出た言葉によって、確証を得た。
どうして人間はこんなに面倒臭いのだろう。私はあなたを知覚しています、なんていう証明書を出会った瞬間にでも手渡してくれれば、薄暗い中で過ごす日々はこんなに長くは続かなかっただろうに。そこまで考えて、彼女に話し掛けることさえ出来ないくせに、と自分勝手な僕自身に呆れた。
もうすぐ終業式が始まるらしく、教室にはもうあまり人は残っていなかった。彼女達はもうすでに教室のドアをくぐっていて、一人だけぽつんと立っていた高梨さんの横をするりと通った。ふわりといい香りがした。
終業式を終えて温かいものが飲みたくなった僕は、ぞろぞろと教室へと移動する人の群れを外れて自販機のある中庭に向かった。時々ビュウ、と強く吹く冷たい北風が、ブレザーを押さえる力を強くする。昔誰かから聞いた、北風と太陽の話を思い出した。旅人の上着を脱がせるために、凍えるような冷たい風を旅人に向かって目一杯強く吹きかける雲の絵を見る度に、幼いながらに本の中の旅人を哀れんだものだった。
真正面から突進してくる風を少しでも避けようと、できるだけ小さく丸まって下ばかり向いていたのが良かったんだと思う。自販機の前に見慣れた財布が落ちているのが、自然と目に入った。
「……あ」
くすんだワインレッドの皮財布。留め具のところにあしらわれている同じ色の蝶々は、ラインストーンで綺麗に着飾って、濁った曇り空を見上げている。
しばらくじっとそれを見下ろしていた僕の右手が動きたがっているのを感じた。緊張しているのか、心臓は一度ぎゅっと縮んでから、どくどくと大きく鳴き始めた。
うろたえる気持ちとは裏腹に膝はかくんと折れて、しゃがみ込んだ身体は光る蝶々にそろそろと右手を近づける。それは簡単に僕の冷えた指先に触れた。
ひょい、と財布を手に取った時、駆けてくる足音が近づいてくるのを聞いて、僕の視線は目の前の財布から自販機の足元へ素早く移動し、ぴたりと固まった。
はあはあと蒸気を吐き出す掠れた音がしゃがみ込んだまま動かない僕の上で舞っている。どうしよう。さっきとは違う緊張感で、心臓の音さえも遠慮しているようだ。手の中にいる蝶々が、早く開放してくれとばかりに震えている。
「ねえ、大丈夫?」
クリアに聞こえすぎたその声は、僕の耳では捕らえ切れない。遠くから聞き慣れていた高めのそれは間違いなく、僕に向けられたものだった。
「あ」
恐る恐る顔を向けると、彼女の強い瞳は真っ直ぐに、僕の手の中に収まっている蝶々を捕らえた。綺麗に整えられた眉がしかめられたのを、瞬時に解析した僕の頭が命令を出す前に、渇いた唇からかすれた声が飛び出した。
「あの、いや違うんだ、盗ったんじゃなくて、落ちてたから拾ったとこ……」
「それあたしの」
「あ、うん」
ようやく立ち上がり、ワインレッドの財布を差し出すと、ラインストーンで着飾った蝶々は一瞬にして彼女の手の中に吸い込まれた。目の前の彼女は、教室で見るより小さかった。さらりと靡く彼女の髪が、北風の冷酷さを緩和している。僕は思い出したかのように自販機に向き直り、小銭を入れて温かいお茶のボタンを押した。飲み物はなんだってよかった。ただ、じっと彼女と向き合っていられる勇気がない。
「あのさ」
ガタン、という音と重なる彼女の声を背中で聞いて、ペットボトルを取り出そうと手を伸ばす。頭の中が軽くパニックになっていたせいで、ガタガタとペットボトルが取り出し口に引っ掛かり、余計に気持ちを掻き交ぜた。
「あのさ、朝教室にいたよね」
彼女の声は真っ直ぐで、でもさっきより少し柔らかくなった気がした。僕が「ああ」と小さく答えている間にようやく取り出せたペットボトルは、凍える両手にじいんとした温もりをくれた。
ぐ、と小さく気を入れて彼女の方に向き直る。彼女の大きな瞳には今、僕が入っているのだろうか。少しの間閉じられていたふっくらとした唇が軽やかに開く。
「財布、貸して」
「……え?」
「あんたの財布」
そう言って、広い中庭に熱を吸い取られ続けているペットボトルと一緒に僕の手に握られている使い古された黒い財布に、彼女は手を伸ばす。ブレザーから茶色のカーディガンの袖が見えていて、その中からすっと華奢な指が僕に向かう。全く理解が出来ていない僕が彼女の指に見とれている間に、財布は二つとも彼女の手の中に移動した。
「……え、なに」
「入れ替えさせて」
「え」
淡々と手際よく中身を入れ替えてゆく彼女の姿は、焦っているようにも見えなかったし、怯えなんてものも、まるで感じられなかった。単純に、綺麗だと思った。
↓
続、