35、まどろむ-1
遡る。遡る。
好きだった。好きで好きで堪らなくって、僕は彼女を見続けた。会えない休日は気が狂いそうになるのを少しでも和らげようと、たいした用事もないくせによく出かけたりした。そのうちそれが習慣のようになり、そこまで遠出も出来ないため、行く場所は自然と決まっていた。
係員に半券を見せ、腕時計で開始時間を確認する。高校の入学祝いに叔母がくれた、なんとかという一流ブランドのものらしいが、ブランド物に一切関心がない僕にとっては価値がいまひとつわからないでいた。両脇に飾られている大型パネルには目も向けず、廊下の奥に設置された男性用トイレへと急ぐ。
用を足して、手を洗う時にちらりと目に入った鏡の向こうに立っている冴えない男は、何を考えているのかわからなかった。平日は教室で彼女に想いを募らせ、休日はこうしてせっせと映画館へと足を運ぶソイツにとっての世界は、遠くから見つめることしかできない彼女そのものだった。
「気持ち悪い」
ぽそりと薄い唇が動く。飽きもしないで同じことを繰り返す毎日は、なんて薄暗いんだろう。遠くで光る彼女を眺めるようにスクリーンを見つめる僕は、本当に気味が悪いと思う。けれど止められないのだ。彼女への想いも、生活の一部と化している、新作の映画鑑賞も。
少し駆け足でおじさんが僕の空間に入ってきたから、腕時計に目を落としながら足早にその場を去った。
その映画は、豪華なキャストが揃っているし映像も凝っていて、いかにも金がかかっていそうなものだった。ストーリーも一般向けしそうなもので、自分的には大きな期待ハズレ感はなく、かといって大当り、というわけでもなかった。
銃を構える美女が脳裏に蘇る。腐敗した街でコントロールがきかなくなったロボットの大群を次々と厳密に処理していく美女は、仲間と共に街を救う。
それは美女だからだとか、仲間がいたからとかではなく、華やかな主人公に選ばれたことによって獲られた勝利で、壊れたロボット役の僕には到底与えられやしないのだ。人生とはそういうものだ。
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時は簡単に過ぎ、高二の二回目の期末テストもさらりと終わった。奇跡的に同じクラスになれたものの、相変わらず僕の世界にはなんの変化もないままだ。遠くに光る彼女の色だけで、僕は動いていた。
「数学のテストを返却します」
授業の始まりと同時に発された教員の言葉を境に、クラスの雰囲気は五分前に戻る。テストが返却され始めると、教室はまるでおもちゃ箱をひっくり返したように声で溢れた。散らかる言葉の間を縫って答案を受け取ると、点数もいつもと変わらなかった。二つ折りにした答案を机の中に突っ込み、何もなかったかのように頬杖をついて辺りを見渡す。返却された答案を手にした嶋さんが、向こうから得意げに歩いてくる。その視線の先は、僕の後ろだ。
「ねえ宏、何点だった? 負けたらジュースだからね」
宏雪の席までたどり着く前に、彼女はわくわくした声色でそんなことを言った。きっと自信がある点数なんだろうな、と、変わらぬ姿勢で僕はぼんやりと思った。宏雪は数学が得意だから、僕もよく教えてもらった。彼の教え方はなかなかの腕前で、柔らかくかみ砕いた説明を慣れた口調で紡ぐ彼を見る度、この人は人に囲まれて生きているんだなあと、羨ましく思ったものだった。
宏雪はクラスの中で、特に嶋さんと仲良くしているようで、この間たまたま家の近所で会った時も、彼女の話をしていた。
「一年ぐらい前かな、屋上でたまたま会ったんだよ、そこで打ち解けて。ほら、あいつって人気者キャラだったじゃん、だけど色々あったみたいでさ」
宏雪って嶋さんと仲良いよね、と僕が切り出すと、嬉しそうに宏雪は口を開いた。
一年前の嶋さんなんて記憶になかった。僕は隣のクラスだったから、人気者らしい、と嶋さんの存在は知っていたけど。そういえば、去年の終わり頃に誰かが、「あの二人怪しいよね」なんて言っているのがちらと聞こえたことを今更思い出した。そこまで踏み込んで聞くつもりのなかった僕は、ふうん、と相槌を打ってから「楽しそうだね」と笑った。久しぶりに緩めた頬の筋肉は、なんだか少し緊張した。
僕の返事を聞いた宏雪はニカ、と笑って「まあな」と言う。きっと彼女のことが好きなんだろうと、容易に想像がついた。
「えー! マジ?」
周りの雑音の中で一際目立っているグループがあった。僕はするりと目を向ける。何人かの女子が身を乗り出して、席に座っている彼女にキーキー声をぶつけている。僕の目には慣れた光景だ。彼女の机に手を付いて身を乗り出すもんだから、短すぎるスカートがゆらゆらと揺れて、露出されすぎた足が無防備に伸びているのばかりが視界に入る。揺れる髪とスカートに邪魔をされて、ちょうど彼女の顔は見えない。
周りに気付かれない程度に頭の位置を動かして、取り巻きの隙間を探していると、うるさいぐらいだった彼女達のキーキー声は少しの間ぴたりと止まった。今もなお賑やかな教室の中心である彼女達の妙な静寂を待っていたかのように、僕の後ろから宏雪と嶋さんの声が上手くシンクロして綺麗に響いた。
嶋さんが驚き、戸惑っている間に、静まっていた彼女達の声のボリュームは一気に跳ね上がり、そして視線の中心は彼女ではなくなったようだった。
新しく視線を浴びた高梨さんが、一瞬ちらりとこっちを見た気がした。
↓
続、