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34、埋もれる


 あたしはその時初めて、矢田俊喜という人をちゃんと見た気がした。ありがとう、と二人に向けた声は、とても素直な色をしていた。それを聞いた好実はちらと矢田を見てから、長い睫毛で縁取られた瞳をあたしに向けた。

「何が」

「助けてくれて」

「別に助けてないし、……あ、ねえ佑月あんたその臭いの踏んだ? それとも矢田?」

 ふと気付いたような好実の問いに、あたしと矢田が同時に靴の裏を見る。矢田は律儀にも履きかえる前の運動靴の裏まで確認している。

「踏んでない、と思うけど」

「僕も」

「へえ、じゃあこれ持ってきた人の靴跡だね、臭かっただろうね」

 そう言ってくすくすと好実は笑った。下を向くと、黒く汚れた跡が掠れているのに気付いた。恐らく李伊のグループの誰かのものだろう、人をいじめるのも、結構リスクがあるものなのだ。キャーキャーとはしゃぎながらヘドロまみれのあたしの上靴を指先でつまむ彼女の姿は、簡単に想像がついた。



「くっさい」


 聞き覚えのあるトロリとした声が後ろから飛んで、あたし達は声のする方に顔を向けた。

 しかめっつらで鼻を摘みながら近付いてきたその子は、立ち尽くす矢田に「どいてよ」と言った。


「ユウコお前、てっきりもう登校してきてるかと……」

「なんで?」

「だってお前李伊達と仲いいから」

「そうだけどなに?」


 戸惑いがちの矢田に、キョトンとした瞳で答えるユウコは、どこか角がない印象を持たせるから、李伊達のグループの中では一番危なくないと思う。彼女は自分からは行動しない性格だから、もしかしたらユウコ抜きで今回李伊達は動いたのかもしれないと、彼女に少しだけ仲間意識を感じてしまった自分がいた。


「……いや、別になんでもない」

「あ、そう」

 すい、とユウコがあたしの側を通る時の彼女の視線に耐えられる自信が無くて、あたしはぱっと反対側に立っている好実の方を向いた。下駄箱に体を向けている好実の頭だけはこっちを向いてはいなくて、階段に続く廊下の方を見ているようだった。

 ユウコが階段の奥に消えても、まだ向こうを向いたままの彼女にあたしは声をかける。

「好実、どうしたの?」

「いや……」

 あたしの方に向き直って少し首を傾げた好実を可愛いと思った。そんな彼女を不思議そうな顔で見つめていた矢田の優しい瞳がふっと緩んで、あたしに視線をくれた。

「こいつたまにこんな感じだからさ、気にしなくていいよ」

「あ、……うん」


 べー、と矢田に目一杯舌を突き出す好実をちらりと横目で笑う矢田は、優しくて穏やかで、簡単に人の心を解いてしまうような人だと思った。そして同時に、あたしには届かない人だとも思った。好実だけを、見ているんだなと思った。




**



 恐怖感は無かった。というか、次から次へと展開する新たな恐怖感に、頭が麻痺する時間さえ無かった。この屋上の澄んだ黒い空気だけが、現実離れし過ぎている。


「いつからだ」


 息を潜めていた宏が口を挟む。

「いつから、その、計画を……立ててた?」

 宏の言葉はどこか歯切れが悪かった。畑上くんのことだ。彼の中ではきっとまだ、畑上くんのことが整理出来ていないのだ。あたしの中でもまだ誰も、死んでなんていないのだけれど。

 真っ直ぐに宏を見据えていた矢田の目の先は、ふい、と宏からそらされ、誰もいない空間をぼんやりと見た。


「お前があいつに手を出してからずっとだよ」

 放り投げられた声は強く吹いた風に煽られたせいで、少しだけ揺らいだ。

 矢田は高二の時から三年間ずっと、好実を想い続けていたんだ。そしてそれと同じだけ、宏を憎んできたのかな。さっき矢田に蹴られた、未だに動きたくないと主張するあたしの足に付着する赤黒い痣が、彼の思いの強さを主張している。でもきっとこれ程の痛みでは表せない。心に刺さるそれは、隠すことは出来ても微塵も消えることはないんだってことを、あたしは知っている。じりじりと体の奥からあたしを焼き、取り込み、離れることが出来ない痛みを。宏のアパートの階段のところにあった蜘蛛の巣を思い出した。くすんだ黄色い羽を持つ蛾は、もう食べられてしまっただろうか。

 早く食べられてしまえばいいと思う。跡形もなく消えてしまえれば、何も残らないのに。元々いなかったものとして、世界は簡単に回るのに。


 どうして人間にはそれができないの。


 人の中に生まれた欲望や愛情や憎しみに形があれば、壊すことだって出来たのに。

 この世界には残るものばっかりだ。



「矢田はずっと……そう思ってたの?」

 わななく唇が零した言葉は見事に震えていた。え?と、聞き取れなかったのだろう、矢田があたしに焦点を当てた。


「ずっと、……苦しかったの?」

 歪みゆく視界の中で、微かに、矢田が眉間にシワを寄せるのが分かった。まばたきをすると同時に、つう、と頬が濡れて、あたしは泣いていた。


「お前が泣く意味が分からない」

 緩む涙腺に負けて、矢田の表情はもう見えない。彼が苦しむ程に愛していた好実。彼を大きく変えてしまうくらい強い想いの先にいた好実。

 好実。


「だってあたしっ……」

「佑月」

 強く制したのは宏の声だった。


「本当にお前がやったんだな」

 ゆっくりと、確認するように宏は口を開く。それに答えるように、矢田は「そうだよ」とだけ言って、ひょい、とフェンスを越え、振り向くことなく室内の階段に続くドアに向かって歩き出した。

 矢田があたしの横を通るときにちらりと向けたその視線に感じた懐かしさは、きっと気のせいではないと思う。

 それは高校時代に幾度となく目にしてきた、矢田と好実が二人でいるときのなんともいえない雰囲気で、あたしがずっと憧れてきた空気でもあった。


 コンクリートを踏んで歩くその足音は次第に消えて、ギィと開く黒いドアの奥に、矢田は埋もれた。




続、



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