33、残る
――こんな風にさ
何が起こったのか分からない。ただ、足がコンクリートから離れたその瞬間、ガンッ、と額にものすごい衝撃を受けたから、あたしの頭はとうとう弾けたのかと思ったのだけれど、少し経って体が宙ぶらりんになっているのに気がついた。頭は割れそうに痛かった。
しばらく朦朧としていた意識がはっきりし出すと、すでに感覚が麻痺した両足はどこにも着いていなかった。すぐ目の前に広がるのは真っ暗な空なんかじゃなくて、砂や埃でざらついた灰色だった。コンクリートのつぶつぶがすぐそこで揺れている。右腕が抜けそうだと悲鳴を上げた。上を見ると、李伊があたしの右腕を必死で掴んでいた。あたしの右腕がされるがままに命綱の役割をしているその姿はきっと不格好で、力の抜けた左腕と、尖ったコンクリートの際に当たるふとももの付け根以外は全て、空気の上で重力を感じていた。
額がガンガンとさっき受けた衝撃を繰り返すように痛む。きっとフェンスにぶつかったんだ。よかった、血のにおいはしない。人の体って大袈裟だ。
「ちょ……早く、重い」
李伊の声にハッとして、右腕に強く伝わる彼女の力を感じた。人の感触。生温い他人の体温。
あたしはやっと目を覚ました左手でフェンスにつかまり、まだ裸足のままだった足をコンクリートの上へと引き上げた。李伊はまだしっかりと、あたしの右腕を掴んで離そうとしない。
「李伊、もういいよ、ありがと」
「早くこっち来て」
ちらとあたしの隣に目をやって、李伊はまたぎゅっと力を込める。李伊の長く伸びた爪があたしの肌を刺激して、痕が残りそうだ。
右腕を掴まれたまま立ち上がると、くらくらして足元がふらつく。両足が笑える程に震えて、力がうまく入らない。李伊と宏の力に助けられて、やっとあたしはフェンスを越え、向こう岸に辿り着くことができた。
両足がフェンスを越えたところで李伊の力から開放されると同時に、力が抜け切ったあたしの体はぐにゃりと崩れ、ざらりざらとしたコンクリートの上にぺたりと座り込んだ。頭がぼうっとする。打ち付けた額が熱くて、どく、どく、どく、と規則正しく脈打っているのが分かる。ああ生きているのだ。この世界に、あたしは残された。
すうっとした風が通って、何も履いていない足の裏が少し寒いと泣いた。あたしの真っ赤なピンヒールは、フェンスの向こう岸でツンと済まして遠くを見ている。
「馬鹿じゃないの」
ぼんやりとした視界を回して、呟くように吐き出された声の先を見る。李伊が睨んでいるそのフェンスの先には、冷え切った矢田が静かに立っていた。
まるで夜の空気と一体化しているような彼は何も言わない。無表情のままゆっくりとあたしを見下ろして、またゆっくりと視界を李伊へと戻した。
「あんた、……どうかしてる」
諭すように静かに、でも李伊の唇から紡がれたそれは重みと鋭さをどんどん増して、あたし達の息まで詰まらせた。何も言わない矢田の目は周りの暗さに混じって、とても深い底無しの闇のようにも見える。
「そうだよ」
溜息と上手く混じり合った矢田の言葉はなんだか軽くて、その溜息の付き方があたしの記憶の中にいた矢田に少しだけ似ていた。
**
「ねえ、そこ邪魔なんだけど。……うわ」
「ごめん」
朝は我慢の時間だった。毎日少しずつ、悪意の篭った小さな悪戯が重なる。それは決して、イジメもののドラマや漫画なんかのような大袈裟なものではなくて、泣け叫んだり誰かに助けを求めなければならない程のことではなかった。だから余計、じりじりと擦り減ってゆく自分に、無感動で無表情な自分に、初めの内は惨めで虚しくなっていたあたしも、もう慣れた。
慣れというのは恐ろしいものだと思う。昔の自分では考えられなかったことが当たり前になる。群れていないと生きていけなかった昔のあたしが嘘のように、今のあたしは一人が普通だ。
しかし今回は少し違っていた。悪戯としての感覚ではない気がするのは、あたしがまだ慣れていないからなのだろう。下駄箱の前で立ち尽くすあたしを、いや、あたしの目の先にある上靴を、じろじろと見てゆくクラスメート達の視線に押されるようにして、この間新しく買い直した上靴に手を伸ばす。
「うわ、何それ」
後ろから投げられた直球の反応に、びく、とまず肩が固まって、そして伸ばしかけていた手が止まる。ひょい、とあたしの顔の横から覗き込むようにして、「捨てなよ気持ち悪い」とバッサリと言い切る彼女は、嫌悪感をあらわにした。素直に反応する彼女の表情はとても自然で柔らかくて、眉間にシワを寄せるその顔さえ、魅力的に見えた。
「嶋、お前正直に言い過ぎ」
振り向くと、もうすでに上履きを履き終えた矢田が、朝練を終えた後なのだろう、タオルで汗を拭きながらあたし達を見ていた。外は今日も寒いのに、この二人の周りには熱気が回っている。
「なんでよ、感想は正直に言った方が傷つかないんだよ」
「いや、傷付くだろ」
「こそこそ言われる方が何倍も嫌に決まってんじゃん」
カラッとした好実の言葉をしばらく見つめていた矢田は優しい顔になって、あたしのすぐ側にいる彼女に近づく。
あたしは下駄箱の中でどろりと異臭を放つ、真っ黒なヘドロに視線を戻した。元々は真っ白だったはずのそれは、きっと手に持っていたかかとの部分を残してみごとに真っ黒だ。靴箱のあたしのテリトリーだけが、他の子達のそれとはまるで違う色をしていて、その中できれいに光るかかと部分の白が、惨めさを強調していた。ツンと鼻の奥を突くような悪臭がこの辺りに充満しているから、きっとあたしの体も同じような臭いがするのだろう。
「これもうダメだね、履けないよ」
矢田はあたしを見て、軽くて優しいため息を付いた。この状況では誰が吐いても重苦しく見えるはずのため息を、ここまで安心出来るものに変えることができるこの人は、きっと汚れを知らないんだろうなと思ったのを覚えている。
↓
続、