32、寝たふり
俺の手はしっかりと、矢田の手首を掴んでいる。フェンスを隔てた距離にあったから、手首を掴むので精一杯だった。それでも矢田は足裏を佑月から離して俺を見た。骨張った手首はごつごつとしていて俺の手首と似ているけれど、少し違うと感じるのはきっと、俺の頭が矢田と自分をきっぱりと区別しているから。
「お前っ……あいつが殺されてどうも思わないのかよ!」
強く叫ばれたそれらの言葉は勢いよく矢田の口から飛び出して、真っ直ぐに俺の顔に当たった。それは俺のアパートを訪れた時のような怖いくらいの穏やかさでも、冷え切ったような鋭さでもなく、――。
矢田が一人の男として好実を愛していた愛情に比例するように溢れ出る人間臭さが、俺が彼女に対して抱いてきたものよりも大きなものに見えて、途端に虚しくなる。俺の方がずっと想ってきたのに。まだ実感が湧かないせいで矢田のように取り乱すこともできない。
「そりゃ思うよ……だって信じられるかよ、あいつが……」
あいつが死ぬなんて。間違いを侵して顔を合わせなくなって、俺の核なる部分には好実の存在が隠れていた。壊してしまわないように、そして俺が起こした間違いに目を伏せる為に、大きな箱にそっとしまった後でロープで何重にもぐるぐる巻にして、大切に大切に今まで保管していた。それが今日一瞬にして完全に開かれ、手を付ける間もなく空気に溶けてしまったのだ。どうしてこんなことが起こったのか、どう反応したらいいのか、そして誰を恨むべきかすら、俺はまだ理解出来ていない。
ただ、好実に直接手を出したのは佑月で、だから一番わかりやすい犯人は彼女だと言う矢田の気持ちも、分からないと言ったら嘘になる。
「じゃあ……」
「でも、」
相変わらず食ってかかる矢田の声の先を塞ぐ。そう、でも。
怯えた瞳で遠慮がちに行く末を見上げる佑月では、俺達はどうしたって好実にかけた想いを消すことは出来ない。それは扱いの違いとかいうのではなく、元々違う人間であるのだから当たり前なのだ。もしここで佑月を責めて、佑月が死んだとして、矢田はその後どうするのだろう。そして――佑月まで無くした後の俺を、俺は想像することも出来ない。
「……佑月まで殺して、どうするんだよ」
佑月、という名前と殺す、と言う単語は、それぞれに異色を放っていて、それ等を並べて口に出すのは酷く億劫だった。そんな会話をしている自分が、しなければならない状況にいる自分が、どんどん頭と分離してゆく。
俺に手首を掴まれたままの矢田は少しの間俯いていたけれど、急にガバッと顔を上げて俺の目を射止めた。
「じゃあ僕は何のために動いてきたんだよ!!」
その顔が何かを求めているように見えたから。
「お前……」
「僕は!!」
矢田の手首により一層力が入って、乱暴に俺の手を振りほどく。しかし矢田がその続きを言う気配はなかった。――矢田は何を、考えている?
――私の考えだけど、直くんは殺されたのよ、絶対そうよ
――まあ本当に?怖いわあ
――畑上は僕が殺したんだ
本当か?
俺達は真実を知らない。知っているのは、矢田と直だけだ。
本当に矢田は「愛する好実の為に」殺人を犯した?
矢田はいつ、変わった?
「矢田お前……本当に、直を殺したのか?」
目を伏せ気味の矢田を強く見つめる。風が止む。誰も何も言わなかった。
重さを増し続ける空気を払いのけるかのように、軽やかに口を開けた矢田の言葉は、夜の黒の上を小さく転がる。
「そうだよ」
コロコロと転がした後、矢田は少しだけ笑った。あの荒々しさはもう見当たらない。
「何、僕は人殺しじゃないって言ってくれてるの?」
皮肉めいた言い方と歪めた口元の中で、俺を見つめるその目だけが笑っていなかった。
「違うのか」
「殺したよ!」
張り上げられた声が、なんだか虚勢のように聞こえたのはきっと俺だけで、李伊がびくっ、と肩を震わせたのを感じた。
「どうやって」
俺の質問には目も合わせず、何の反応も示さないままで、矢田はまだ隣でしゃがみこんでいる佑月に手を差し出した。
「とりあえずさ、フェンス越えようよ」
「……え」
「ごめんね」
申し訳なさそうに、持ち前の人当たりの良い顔を佑月に向ける矢田の心が分からない、どこが本当でどこが偽りなのか。矢田本人には分かっているのだろうけれど。一番こいつに近かった好実なら、きっと見抜いているのだろうけれど。
突然の対応に佑月は戸惑いを見せたが、少し考えた後、恐る恐る矢田の手に自分の手を重ねた。矢田は手を引いて佑月を立ち上がらせ、フェンスの方を向かせる。ちらりと俺の方を向いた瞳はぎらりと光って、ぼそりと呟いた。
「こんな風にさ」
佑月がフェンスに手を伸ばしたその瞬間、佑月の膝下辺りに、矢田のものすごい蹴りが入った。気を抜いていた佑月のバランスは簡単に崩れ、両足は後ろに払われた。
↓
続、