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31、カラ


――――消えた。



 フェンスを隔てたところで、佑月と好実と、それから矢田が塊になっていた。それほど高くないフェンスが、分厚いガラスで出来た壁のように立ちはだかって、俺と李伊はただの傍観者になってしまっている。手を出すことも出来ないまま、まるで早送りの動画のように全ては動いた。


 落ちる瞬間の好実が、矢田と佑月の間の隙間から半分だけ見えた。ついさっきまで手を伸ばせば届きそうな距離にいたはずだった好実が、ふわりと一瞬夜に浮いて、そして消えた。

 恐る恐る伸ばした俺の手が掴んだ彼女は、もう幻と化していた。



 空気を引きはがすような、矢田の深く重い叫び声が響く。まるで映画のワンシーンのようだと、まだその状況までたどり着いていない頭がふらりと回る。

 いくら目を凝らしても、好実の姿は見えない。夜の澄んだ空気に、綺麗に混じってしまった。ちらりと李伊を見ても、俺と同じ様子で固まったまま動かない。

 生と死なんて理不尽過ぎる。人の死が目の前で起こるなんて、そういう状況は俺達にはまだ早過ぎる。しかもそれが好実だなんて。俺がずっと想い続けてきた、触れる事も出来ないたった一人の女だなんて。

 生きてるに決まってると、あいつが死ぬはずないと、頭の大半はそう信じていた。たとえこのビルがこの辺りで結構な高さを持っていようが、真っ先に下界を見た矢田が柄にもなく怯えた悲鳴を上げようが、彼女が死ぬなんて、たった今いなくなったなんて考えられるわけがない。


 だってまだ謝罪以外に何も話してない。まだあの笑顔を見てもいない。だってそれじゃあ俺は、これからどうすればいい?これまでの彼女に対する想いと積もりゆく想いを、――俺はどうすればいい?


 俺の中身が消えてしまう。空っぽになる。



「お前が!! お前このみに何してんだよ!!」

 矢田が佑月を怒鳴り付ける声が弾けた。


「……あ、たし?」

「そうだよお前だよ!お前がこのみを殺したんだよ!このみを、殺したんだよ!!」


 震える佑月に構うことなく体全部で吠える矢田は、もうさっきまでの冷静さのカケラも無い。それは素の矢田が溢れ出てきているように見えたから、俺は少しだけ疑問を抱いた。


 相変わらず俺の中では、好実は死に切れないままだ。俺の視界からいなくなっただけで、もう会えないだけで。

 もう会えないだけで。

――もう、会えない。


「……好実」


 口が微かに動いただけの音だったけれど、それに気付いた李伊は俺の顔をじっと見た。視線には気付いているのだけれど、首を動かす気にもならない。


 カラになる。


 地上にいながら中身が無くなった俺は、中身をいっぱいに詰め込んだまま地上からいなくなった好実と正反対だ。この体を好実に差し出せるのなら、それで好実が完全体になれるなら、俺は喜んで消えるのに。中身も体も無くなった俺は、何の未練も無くソラへ行ける。


「死にたかったんだろ? ほら、死ねよ」


 ぼんやりと見ていたその景色の中では、矢田の足がしゃがみ込んでいる佑月を押していた。フェンスにしがみついている彼女は、抵抗もせずただ縮こまっている。


「……やっ」

「お前のせいなんだよ!!」


 矢田がまた大きく声を荒げたから、視界の端にいる李伊がびくっと動いた。

 佑月のせい。そう言われればきっとそうなんだろう。直接好実に手をかけたのは、他の誰でもない、佑月だ。でも、そもそもの原因を作ったのは――きっと俺だ。

 俺が佑月に目を向けていれば。李伊を呼ばなければ。直が――殺されなければ。


 目の前の状況をちゃんと見る。冷静さを失った矢田が佑月を足蹴にしている。


「おい!」

「やめろって!」


 矢田の怒声を聞いた俺の口が勢いよく飛び出す。見ていられなかった。

 好実がいなくなることすら実感のカケラもないのに、目の前で次から次へと場面が動いて、展開がまるで早過ぎる。感情が置いてけぼりをくらっている中で、佑月までいなくなろうとしている状況をなんとかしたかったのは勿論だったけれど、俺はこれ以上壊れゆく矢田を見たくなかった。直を手に掛けた男。俺達をぐちゃぐちゃに掻き回した男。憎んでも憎み切れないはずなのに、俺の頭のほんの片隅にいる高校時代の矢田が、ぎりぎりのところで邪魔をする。




**




 高二の夏の初め、屋上の一件があってから仲良くなり始めた俺と好実に興味を持ち出したのが、好実の隣の席だった矢田俊喜だった。

「お前等仲良いな」

 それが俺と好実にとって、初めて聞いた矢田の声だった。騒がしい教室の上をすっと流れて溶けるような澄んだ声色で、気取ったところがない柔らかな印象を感じたのを覚えている。


「え、何あんた」

 すかさず好実の直球が飛ぶ。無駄な笑顔を振り撒かなくなった好実は、自然で飾らないそのままの彼女をさらけ出すようになったのだが、彼女が放つ率直な言葉はどこか憎めなくて、寧ろより一層魅力を放っていた。

「え、僕のこと知らない?」

「知らない」

「矢田俊喜」

「ふうん」

「ごめんな矢田、こいつこんなやつなんだ」

 穏やかな雰囲気を醸し出す矢田をこれ以上困らせてはいけないと思った俺が、横からフォローを入れると、何よ失礼ね、と好実は膨れた。

「いいよ、飾らない人の方が僕も安心できるし」

 そう言って笑う矢田を、俺は羨ましかったのかもしれない。



「矢田はどうして陸上やってるのさ」

 そう聞いたことがあった。矢田はきょとんとした目で俺を見て、ちょっと笑った。自然に零れる笑顔が、俺を緩ませる。


「好きだから」


 もっと具体的な答えを期待していた俺は、ただ矢田を眺めることしか出来ない。

「好きだから、それだけだよ。宏雪も走ってみれば分かるよ」

 そう答える顔が楽しそうで、純粋に走ることが好きなんだと思わせられるには、十分過ぎる答えだった。

 こいつも好実と同じだと、心で気付いた。飾りなんて要らないんだ。細々した言葉は使わない。率直に、思ってることだけ。

 俺には無いものだから欲しくなって、俺には無いものだから羨ましさに負けた。


――どこか好実と似た空気を感じる矢田が、俺は嫌いだった。




**


  喉の奥に引っ掛かる魚の小骨。ご飯を掻き込んでお茶を何倍も飲んで、飲み込めないから逆にうがいをしてみても効果はない。静かにしていても、小さなイガイガはちくちくと存在を主張して、俺は大人しく溶けるのを待つしかできない。

 急にそんな感覚に駆られた。



続、




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