30、砕ける
何が起こった?
「……え」
人の体がこんなにも、簡単に吹き飛ぶなんて知らなかった。呆然とあたしを見た好実は、ストンとあたしの視界から消えた。
状況がまるで固すぎて飲み込めない。
「こっ……このみ!!」
一瞬凍り付いたあたし達の時間を一番最初に抜け出したのは矢田だった。真っ先にコンクリートの際から好実が消えた先へと身を乗り出した矢田が、ひっ、と小さく声を漏らしたのを、体全部で聞いた。
頭の重みが少し吹いただけの風によって、重心を探るようにふらふらする。足が三本あれば、バランスなんて考えなくてもいいのに。
「あ、……ああ、アアアアアアアアア!!!」
すぐ隣から聞こえたのは、吠えるような声だった。夜の町に響くそれは、矢田を壊した。
飲み込めない。飲み込めない。のみこめない。
そのくせにあたしの息は浅く、肩にはキツい程の力が入っているから人間って不思議だ。頭の反応が一番劣っている。
「お前が!! お前このみに何してんだよ!!」
がばりと顔を上げ、突き刺す怒声と共にあたしを睨み付けるその顔は、あたしの知らない人だった。
「……あ、たし?」
「そうだよお前だよ!お前がこのみを殺したんだよ!このみを、殺したんだよ!!」
認めたくなかった現実。
――そもそもさー佑月ってよく告られたとか言ってるけどほんとなのそれ
――あたし佑月が告られてるとこ、ていうかアピられてるとこすら見たことないんだけど
――あたしもだよ、えーマジ作り話?サイテー。まああたし信じてなかったけど!
――まさか本気にしてないよね
誰にも心を開いてはいけなかった現実。あたしには必要性がなかった現実。現実。
好実を――
「あああああああああ!!!」
とてつもない叫び声を発しているあたしは、もうあたしではなかった。叫んだ勢いでその場にしゃがみ込む。立ってなんていられない。息を全部吐き出すと同時に、それは誰かの涙へと変わった。歪んだ口から溢れ出る震える息と、崩れた顔を伝う涙が、自分自身を守る唯一のもののような気がした。
頭がやっと身体の反応に追い付いて、その恐ろしさを意識したから余計に、身体はガタガタと大きく怯えた。
好実が死んだ。あたしのせいで。――あたしが、殺した。
心臓がはち切れそうなくらい大きな音を立てて、血液を入れて出してを繰り返している。肺が潰れそうなくらいにキュウウと縮んで、息が苦しい。
あたしは生きている。死ぬはずのあたしがまだここにいる。
――いなくなりたかったのに。
「あ、ああ、……ああ、あああ……」
絶望感と無力感と、とてつもない罪の意識。自己防衛本能がまだ上手く発揮されていない剥き出しのあたしには、まるで成す術がない。力無く漏れ出る言葉にもならない声が途切れることなく作り出され、夜に吸い込まれ続ける。自分がいなければいいのに。
「おい」
すぐ隣から聞こえるのは矢田の口から発せられた乱暴な音で、あたしはゆっくりと、涙で汚れた顔を向ける。
「消えろよ」
固まった脳みそでは、理解が難し過ぎた。矢田の顔をただぼうっと眺めていると、横腹に靴の裏が押し当てられた。
耳からは理解できなかったそれに、体に直接与えられた感覚によってやっと気付いた。
「死にたかったんだろ? ほら、死ねよ」
「……やっ」
「お前のせいなんだよ!!」
誰の声なのか分からないその怒声が、あたしを頭の内側からガンガンと叩く。押し当てられた靴裏に込められる力は徐々に強くなって、あたしは思わず固いフェンスを握り、ぎゅっと目をつむった。こんな世界、見たくない。見たくない。見たくないのに。――怖い。
――死にたくない。
「おい!」
「止めろって!」
あたしの両手は、離さないとばかりにしっかりとフェンスを握っている。ガタガタと震えるあたしの上で、聞き慣れた声が矢田を止める。ビュウ、と強い風が吹いて、髪が靡いているのが分かる。
「お前っ……あいつが殺されてどうも思わないのかよ!」
「そりゃ思うよ……だって信じられるかよ、あいつが……」
「じゃあ……」
「でも、」
急に強い口調になった宏が矢田を押さえる。そろりと目を開けると、ぎゅっとつむっていたせいで、視界の端でちらちらとフラッシュのようなものが動いた。その限られた視界の中で、李伊から離れた宏は、フェンスの向こうから矢田を掴んでいた。
「……佑月まで殺して、どうするんだよ」
二日前までは、こんな会話なんて一生聞かないで生きていくのだと思っていた。それが今じゃ、あたしは立派な中心人物だ。今という状況でそんなことを簡単に考えれるあたしの頭は、どうかしているのかもしれない。
ここであたしが取るべき行動として一番正しく見えるのは、矢田の言う通り、あたしがいなくなることなんだろう。でもあたしはそれをする勇気も、覚悟も持っていない。――じゃああたしはどうすればいい?
「じゃあ僕は何のために動いてきたんだよ!!」
あたしの思考の先に聞こえたのは、矢田の澄んだ声だった。
矢田が、愛する好実の為にずっと長い間積み上げてきたもの。それが一瞬でばらばらに砕けたんだ。こんなにも想い続けられて、やっぱり好実が羨ましい。
――でもあたしが砕いた。
「お前……」
「僕は!!」
それだけ言って、矢田は止まった。
「矢田お前……本当に、直を殺したのか?」
「え?」
突然舞い上がる思いもかけない発言に、あたしと李伊の疑問譜が弾ける。
静かな夜の中に、静かに拡散する宏の声の余韻が、あたし達を包んだ。
↓
続、