29、ひび割れ
インターホンが鳴った。
シャワーを浴び終わった李伊が早速玄関に向かおうとするのを引き止めて、俺がインターホンに出る。
好実とのことがあってから、俺は付き合ってるとか付き合ってないとか、そういうのはただの表面上の名目だと思っていたのだが、この状況を前にした理性的な俺は、やっぱり少し、戸惑っているようだった。
ひろ、とインターホン越しに呼びかけるその声が、俺の息を潜ませた。聞き間違いかと思った。ついさっき出て行った佑月がこんなに早く戻ってくるなんて、想像出来るはずがない。
李伊と佑月の関係をよく知っている俺だから余計、どうしていいかわからない。思考が停止した空っぽの頭に真っ先に浮かんだのは、彼女たちを突き合わせてはいけない、ということだけだった。
佑月に冷たいと思われるかもしれない。だけどそんなことより。そんなことより。
――彼女がまたあの頃に戻ってしまうことが、俺は何よりも怖かった。
時が止まったのは俺の中だけで、俺の様子に興味を持った李伊は真っ直ぐに、外の廊下が見えるカーテンを引く。
気が気じゃなかった。早く帰さないと。佑月、ごめん。あとでちゃんと説明するから。
佑月と目を合わせる勇気はなかった。きっぱりと「帰れ」と言い放つ勇気もなかった。俺は足早にドアノブに手をかける。これでよかったんだ、と、自分に言い聞かせかけた時だった。
「佑月、久しぶりだね、上がりなよ」
すぐ後ろから飛んだその声に、びくんと体が反応する。
「ちょ、お前何言って……」
「いーじゃん、せっかく来たんだから」
無邪気な子供のように、わくわくを滲ませた笑顔で俺を押さえ付ける。結局李伊に押し負けた形となって、佑月は部屋に入ることになった。
ベッドに背中を預けるようにして、俺は床に敷かれたカーペットに座っていた。ちらと本棚辺りに目をやる。佑月と李伊が俺に背を向けて、そこに置かれた写真について喋っているのが視界に在った。
竜樹は、ほんの二週間くらい前に家に来たばかりだった。特に何を話すということもないのだが、一ヶ月か二ヶ月ごとにふらりと俺のアパートを訪れる竜樹を見るたびに、変わらない関係に一息着いた。今日この場に竜樹が居てくれれば、俺はどんなに気持ちが楽だっただろう。
「ああわかった、宏あんた手え出したね」
いつの間にか隣に座っていた李伊のアーモンド型の瞳が楽しそうに、俺をくるりと見つめる。俺はハッとして、瞬間的に横を向いた。
思い出して、しまうから。
好実の白い肌。華奢な身体。さらりと動く髪。――透明に流れる涙。
――泣くなって。
衝動的に、俺の左腕に抱き着いてくる彼女の唇を塞いだ。彼女は少し驚いたようだったけれど、くすりと微笑んで、もう一度唇をくっつけた。
濡れた唇から伝わる彼女の体温が、彼女のものである唾液が、俺のものになる。舌と舌が抱き合うように、何度も擦り寄る。彼女が俺から離れていないことを、近くにいることを、これでもかとばかりに感じさせられる。
ふと、視線を注がれていることに気付いた。ぼんやりとした感覚の中で、彼女の頭越しに見たその顔はひどく無表情だったけれど、その時の俺に必要なことは深入りした感情などではなく、離れずにただそこにいる、ということだけだった。
「三人で遊ぼうよ」
李伊のワクワクに満ちたその声で、俺は完全に、その状況がおかしいことを知る。俺の頭は必死に逃げようとしていたのだけれど、さっきまでのまどろみが眠気のようにしつこく纏わり付いて離れない。見上げると、一歩引いた目で俺を見下ろす佑月と目が合った。
途端に俺はどうしようもない恐怖に駆られる。身体の奥でくすぶり続けている黒い煙は、たちまち大きく膨れ上がり、醜い獣へと形を変えた。
――近くに居てよ。
「ほら、宏も立って」
弱さの塊であるその獣は、俺の腕を引いた彼女に真っ先に噛み付く。俺が俺じゃなくなる。なくなる。――なくなる。
そして俺の中の俺は消えた。
**
――あの女と手組んであたしを追い出したクセに。追いかけてもこなかったクセに。目も合わせてくれなかったクセに!
怖かったんだ。お前がいなくなるのが。俺から離れていくのが。――怖かったんだ。
佑月の甲高く力強い主張に俺が反応出来ずにいると、彼女の口からどんどん言葉は溢れ出て、夜の空気にばらまかれる。
「李伊が好きなら好きって言いなよ!あたしが邪魔なら邪魔って言ってよ!……あたし一人で馬鹿みたいじゃん」
――違う。邪魔なんじゃない。邪魔なわけ、ないよ。
「俺には佑月も李伊も大事だ。それは嘘じゃない。だけど、……想い続けてるのは好実だけだ」
カラカラに渇いた頭から出された指令は、心で思った答えとは全然違うようだったが、修正する気は起きなかった。口だけが別人のようにするりと紡ぐ言葉は、それでもやっぱり俺が一番気にしていたことで、言いたくて言いたくて仕方がなかったことでもあった。――ただ、この状況とは掛け離れ過ぎてはいたが。
好実の歯止めも虚しく散り、佑月がぽつりと好実への羨ましさを伝えるのを、ぼんやりと眺めていた俺の耳は、次に発せられた言葉で止まった。
「あたしは事件のこと知らないけどさ、きっと好実の為なんでしょ。分かるもん、そういうのって」
蘇る昨日の矢田の笑みが、俺を突き落とす。なんで直なんだよ。あいつが何したっていうんだよ。関係ないだろ。お前……何考えてんだよ。
お願いだから、俺を殺せよ。
「俺には、……わからない」
矢田を真っ直ぐに見つめる。矢田は何にも思っていないようなくるりとした目で、舐めるように俺を見た。こいつをここまで変えてしまったのは、……俺なのか?
「俺には、それが人を、直を……殺す理由になるとは思えない」
そんな俺の発言を聞いて、表情を一つも変えないままの矢田に、小さく李伊が問う。その問いにふっ、と口角を上げた矢田がさらりと告げるのは、一番初めに俺が聞いたことだった。
そしてもう一つ明らかにされたそれは、耳を疑うものだった。
「誰か寄り掛かる人がいたら絶望感って薄れちゃうしさ、別れてからしばらく経った今ぐらいの時期がちょうど良かったんだよね」
ガクガクと李伊がおびえるのが、すぐに分かった。強張っていた顔が、みるみる崩れてゆく。俺を、呼んでいる。
他の誰でもない、俺の意志だった。壊したくなかった。
李伊の小さな身体を包み込む。ごめん、ごめんな。何があっても、これはお前のせいじゃない。
「ダメ!!」
切り裂くような好実の大声に反応した頭がびくんと踊る。さっきまで俺がいたなんて信じられない程に細くて足場の無いフェンスの向こう側で、好実が暴れる佑月を必死に押さえている。
「ゆつ……」
「おい!止めろ!」
俺の反応よりほんの少し早く、矢田がフェンスを飛び越えて、佑月に手を伸ばした時だった。それは一瞬だった。
最後まで、俺が彼女のためにしてやれたことは一つもなかった。俺がずっと、狂おしい程に愛して止まなかった彼女は、その後一度も俺に触れることはなかった。
誰のものかわからない怒鳴り声と叫び声が響き渡る夏の始めの夜遅くに、好実はいなくなった。
↓
続、