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28、固まる


 ――――どうしてこうなった?




**


 本当に久しぶりに好実を見た。彼女は高校の頃からあまりにも変わっていない。屋上に繋がるドアから一直線に駆けて来た彼女の目にはなんの迷いもなく、そんな彼女の横顔を見ている俺の想いも、真っ直ぐに届いたらいいのに。

 こんなにも思い続けていた彼女が急に目の前に現れたという事実が、そして俺と彼女を突き合わせた皮肉な事件が、頭の中央を陣取って俺を固まらせる。目だけは貪るように好実を見ていた。今までの餓えを取り戻すように。

 不意に好実の目が俺に向く。長い睫毛に縁取られた瞳。心の奥から溢れ出すなんともいえない感情に俺はあっさりと押し負けて、泣きそうになる。


「……好実」


 その声を聞いて初めて、自分が言葉を発したことに気付いた。無意識の内に俺の身体は彼女を欲しがっている。周りなんて見えない。彼女以外、見えない。

 もう一度口を開く。今度はちゃんと自分の意志で。言わなきゃいけないと思いながら、ずっと言えなかった言葉。口に出して自分で認めてしまうのが怖かったはずなのだけれど、ついさっき好実から電話が掛かってきた時にもうすでに覚悟はできていたから、電話の時ほど苦しくはなかった。むしろ早く伝えたかった。許してくれなくてもいい、一生好実の前で怯え続けるわけにはいかない。


「好実俺……」

「わたしもごめん」

「……え?」


 俺の言葉を遮るような、俺より一回り大きな好実の声が、静かな夜に響いて溶けた。あの日のことは全て、俺の中で暴れた嫉妬と言う名の獣のせいであり、抑え切れなかった俺自身のせいだ。何言ってんだよ、好実が悪いわけないじゃないか。好実はただ――


「わたしがちゃんと宏のこと見なかったから……だから」


 言葉に詰まる彼女を見つめる。――そんなの。そんなの、お前が悪い理由になんてなるわけないだろ。なんでだよ。どうしてお前が自分を責めるんだよ。苦しそうな顔するんじゃねえよ。全部俺のせいだって言えよ。

「好実」

 泣きそうな彼女をこれ以上見ていられる自信がなくて、俺はもう一度彼女の名前を呼ぶ。温いけどどこか涼しさをも含む夜の空気を吸い込む。


「本当に俺どうかしてた。……申し訳、ありませんでした」


 大きく頭を下げる。少しの間、沈黙が続いた。この辺りではかなり空に近いこの場所には虫の音も届かないし、時々吹いていた風も流れるのを止めた。

「頭、上げてよ。もう……」

「僕は許さない」

 遠慮がちに発された好実の声に被さったよく通る涼しげなその声は、頭を下げたままの俺を押さえ付けた。息が、浅くなる。

 今まで止んでいた風が、また緩く流れ出す。押さえ付けるその声に逆らうように、頭を上げて矢田を見る。さっきまで好実と俺しかいなかった視界に急に割り込んで来た矢田に、俺は反論する術を持たない。

 許されないと思う。許されてはいけないと、思う。俺には彼女を愛する資格も、ないのかもしれないけれど。でも。それでも。――止まらない愛情と欲望を、俺はどうしたらいい?


「あの、あたし何にも分かんないんだけどさ、とりあえず二人ともこっち来なよ。落ちちゃうよ」

 高めの李伊の声が耳に入ると共に、急に視界が広くなった。そうだ、今俺はフェンスを越えたところにいるのだ。そして俺達は、佑月を死なせまいと此処に集まったはずだった。隣にいる佑月に目を向けると、どこを見ているのかわからない彼女の瞳は、ひどく虚ろだった。

 好実が声を掛けたが、突然現れた佑月のきっぱりとした「うるさい」の一言に、ここにいる全員が息を潜めた。

「結局好実ばっかり。あたしのことなんてどうでもいいんじゃない」

「佑月お前何言って……」

「あたしは、そこの女に裏切られて居場所を無くした。だからもう二度と他人と深く関わらないようにしようって思った」


 一度開かれた佑月の口は、止めようがなかった。俺が知る彼女は、自分のことを話そうともしない人だったから、まるで誰かが乗り移ったようにも見える。ふと、好実と仲良くなるきっかけになった高校の屋上を思い出した。女の人ってどういう考えで本当に突然本音が溢れ出すんだろう。そんなことを考えてすぐ、自己嫌悪に陥った。俺だってそうだったじゃないか。

 感情と本音。言葉で伝えられる彼女たちの方が何倍も、俺より優れているというのに。


「宏にとってあたしは代わりだったんでしょ。好実の代わり、それから李伊の代わり。ずっと前からあたし自身には何の価値もないの。あたしの居場所なんて、あるように見えていただけで、本当はどこにもなかった」

 すぐに言葉を探せなかった。


――「代わり」?


 代わりなんかじゃない。人は、誰か他の人が代わりになれるようなそんなに薄くて軽いもんじゃない。お前は俺を繋いでくれていただろ。そして俺も、お前を繋いでいたんだろ?そう言ったじゃないか。俺とお前はお互いがお互いであるために、必要不可欠な存在なんだよ。

 そう言いたかったのに、佑月は俺の発言を認めてはくれなかった。佑月の本音は勢いが増して、叫び声に変わりつつあった。

「あの女と手組んであたしを追い出したクセに。追いかけてもこなかったクセに。目も合わせてくれなかったクセに!」

 佑月の瞳が睨む先には、李伊が静かに立っている。俺は何も言えなかった。佑月が再び家を訪れたのはついさっきのはずなのに、遠い昔のことのようだ。俺達はこの数時間のうちに、どれだけ年をとってしまったんだろう。


――どうしていいか、……わからなかったんだ。




**


 佑月が俺の家を出て行った時ほど、一人が淋しいと思ったことはなかった。だからすぐに李伊を呼んだ。李伊が俺の家に着いた時ほど、人に甘えたいと思ったことはなかった。


「あはは、どうしたのよ。そんなに淋しかったの?」

 ドアを開け、李伊だとわかった瞬間に抱き着く俺に優しく腕を回し、ぽんぽんとあやすように背中を軽く叩く彼女は、事情を何も知らないただの元カノで、そんな彼女に縋る俺は、ただの元カレだ。事件には何の関係もない、ただの男と女だ。


「シャワー借りるね、一人で待ってるの嫌なら一緒に入ってもいいけど」

 そう言って穏やかに笑う李伊は俺のことをどう思っているんだろう。別れた原因は喧嘩ではなかった。別れを切り出したのは李伊からだったけれど、そんなことは関係なく、ただ、お互いがお互いに興味が無くなったのだった。そんな終わり方だったから、必要としたりされたりすることが、余計に新鮮に感じるのかもしれなかった。

「だってお前、二人は狭いって文句言うじゃん」

「あはは、覚えてた?」

「当たり前」

 ここで待ってるから風呂入ってきなよ、と俺が言うと、李伊は微笑みを残して風呂場へと消えた。


 李伊といる時の空気が、俺は好きだった。高校を卒業してすぐ、彼女から付き合って欲しいと告白された。好実との一件が頭にこびりついて、事実から逃げていた俺は、ふわふわと浮いたまま、OKの返事を返したのだった。

 気が強く明るい彼女は、俺の気持ちが彼女に向いていないことにすぐに気付いた。問い詰められ、正直に、昔好きだった女が忘れられないと嘆く俺を彼女は癒し、叱り、そして優しく包み込んでくれた。

 彼女の前にいる俺は、何の罪も持たない、昔の女にまだ好意を抱いている、そんなありふれた男で、最低な自分とは無縁の、彼女に甘える彼氏でしかなかった。李伊は俺に安心をくれた。


 そんなある時、俺の携帯にメールが入った。卒業と共に連絡が途絶えていた、高梨佑月だった。入社したばかりの会社でも人間関係はうまくいっていないようだ。好実とのことがあった後、ずいぶん救われた佑月だったから、見捨てることはできなかった。

 俺の心は、誰かを傷付けるということに、人一倍敏感になっている。そしてあの時学校の屋上に続く階段で感じた李伊とは違う心地よさを、俺の頭は確かに欲しがった。

 支えが複数になると、俺が抱える重さも軽くなり、自分も助けになれるという満足感が得られる佑月に、次第に心が傾いていったのだった。李伊も李伊で、そんな俺に物足りなさを感じているようだった。


 必要とされ、されることが、李伊と俺を結ぶものだった。そしてそれがそのまま、愛情へと変わってゆくのだと、俺は思っていた。




 シャワーを浴び終わり、バスタオルで髪を拭きながら戻ってくる李伊に俺は笑顔を向ける。李伊も、そんな俺を見て、きゅっとかわいらしい笑顔を見せた。


 インターホンが鳴ったのは、その時だった。



続、



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