27、届いてはいけない
バタンと響く大きな音が、あたしの言葉を遮った。
振り向くと、何人かの人影が見える。
――誰?
あたしは立ち上がる。さっきの宏と同じように、駆けてくる人物がいた。
「佑月っ!」
ガシャン、とフェンスにぶつかるその人は、唯一あたしが連絡をした人物だった。ハア、と大きな息を吐き出した彼女は、冷たいフェンスに手を掛けてあたしを見つめる。
「好実……」
「佑月、ごめんね。心配したよ」
「うん」
さらりと放たれる謝罪と同情の言葉を、あたしの耳は大人しく飲み込んだ。
好実もあたしを探してくれていたのかな。あたしのことを、気にかけてくれたのかな。そんなことを思うと、自然に笑みが零れた。ふわふわした気持ちになって、隣に立っている宏を見上げる。
気持ちは一気に萎えた。
――なんだ、やっぱり。……あたしじゃないのか。
宏がこんなに人を愛しそうに見るのは、きっと二度目で、そんな宏に対してこんなに心が疼くのは、きっと初めてだ。上がりかけていた口角が、ストンと下がった。
初めてその瞳を見たのはあたしが最初に抱かれた時。宏があたしを「このみ」と呼んだ時。泣きそうな声の中に込められた「このみ」に対する欲情が、あたしの肌の上を滑る。宏の瞳は目の前のあたしなんか映してはいなくて、ただゆらゆらと揺れていた。まだあれから一日も経ってないことに気付いて小さく驚く。一日って長すぎる。
――大切に守りたいって思う。
――……それも、嘘、か。
後ろの方から残りの二人が掛けて来て、好実の後ろで止まった。李伊と、矢田だ。
――矢田?
あたしは混乱した。
畑上くんを殺した矢田が、どうしてこんなところにいるんだろう。どうして誰も触れないんだろう。好実の近くにいる矢田の存在は、まるで自然すぎる。
高校の時、当たり前のように矢田と好実は一緒にいた。二人が付き合ってるとか付き合ってないとかいう噂はいつもあったけれど、それでもやっぱり好実と言えば矢田だったし、矢田と言えば好実だった。
それなのに。
「……申し訳、ありませんでした」
深く頭を下げる宏は、何かを強く覚悟したようだった。宏の目の前に立っているのは好実だ。あたしのことなんか、もうとっくに忘れているようで、みんなみんな、あたしの為に来たわけじゃないみたい。始めから、あたしはいなかったみたい。冷たくて温い夜風があたしの頬を撫でて、続いて隣にいる宏の髪をなびかせる。
好実はしばらくの間真っ直ぐに宏を見下ろしていたけれど、思い付いたように口を開けた。
「頭、上げてよ。もう……」
「僕は許さない」
今まで黙って聞いていた矢田がいきなり口を挟むから、穏やかになりかけていたあたし達の周りに潜む空気は、一気にピインと張り詰めた。
許さない、だって。そんなことをきっぱりと言い放たれる好実が、あたしの憧れだった。一度でいいから、そんな風に思われたかった。
詳細はよくわからないけれど、きっと矢田は好実の為に動いているんだろう。そして宏は、その原因だったのだろうか。好実を、自分のものにしたかったのだろうか。でもできなかった。だから李伊を好きなの?
――じゃああたしは?
どうだっていいのかな、……どうだっていいのか。
頭の回転がぐるぐるとスピードを増して、増して、増して、
そしてプチンと切れた。
「ゆつ……」
「うるさい」
思い出したかのように好実があたしに向かって呼びかけた言葉が、あたしに惨めさを突き付ける。可哀相な子を勇気付けるような言い方なんて、余計に可哀相に見せるだけだ。あんたには分からない。困るほどにみんなから構われるあんたには。
嘘つき。嘘つき。みんな嘘つき。あたしのことなんて誰も見てない。
――よくそんな嘘付くね。李伊の体操服も財布も盗んだくせに
ハルカの癖のある声が緩く吹く風に乗って、あたしの耳の奥で弾ける。あたしは嘘つきじゃない。あたしを陥れたのは李伊だ。全ての元凶はこの女だ。なのに、それなのに。
どうして李伊は愛される?
どうして李伊は平和に暮らしている?
宏はあたしを助けてくれたんじゃないの?結局宏は李伊のものだったの?
――じゃあどうして助けたの?
あたしの口は止まることを忘れてしまったようで、心の中で大きくなったモヤモヤを、目茶苦茶に切り裂いた。
「俺には佑月も李伊も大事だ。それは嘘じゃない。だけど、……想い続けてるのは好実だけだ」
不意に宏がそんなことを言った。宏の言葉はとても率直で、透き通るように綺麗だったけれど、薄汚れたビルの屋上の空気とは桁外れに浮いて見えた。何が言いたいの。あたしに飛び降りて欲しいの?
あたしは最初から、代わりだった。代わりは本物の前では意味を成さない。そんなこと分かってる。そして本物が現れた今、あたしはもういらない。
黒い瞳の向こうに、あたしは最初から届くだけの手の長さを持っていなかった。届くはず、なかったんだ。
「このみは僕のものだから、その心配はないよ」
矢田があたしに優しく諭す。そんなことどうだっていいの。あたしは心が欲しいの。
矢田は事件を起こしたにも関わらず、この中の誰よりも平然としている。矢田にとってはこの世界の全ては好実なんだろう。
――好実のようになりたかった。いつもみんなの中心で、好実の周りに人が集まる。それはあたしのように仮面を貼り付けているわけではなくて、だから余計に羨ましかった。そして誰からも好かれておきながら、自ら一人になりたがるそんな自由奔放な考え方ができるような環境にあった彼女に、自然体の彼女に、少しでも近づきたかった。
宏の口が動くのをぼんやりと眺めながらそんなことを考えていると、思いがけない言葉が飛んだ。
「本当は卒業してすぐでもよかったんだけどね、宏雪に彼女が出来ちゃったからさ」
矢田は、時期を見計らって宏に復讐をしたというのだ。李伊の表情が瞬く間に青ざめてゆく。矢田は好実の為にそこまで思い詰めていたのだろうか。矢田に抱き寄せられている好実は、下を向いていた顔をがばりと上げ、目を丸くして李伊を見ている。李伊が震えている。こんな形で彼女に制裁が下るなんて。
そんなことを考えたのもつかの間、あたしと二人でみんなとフェンスを隔てていた宏が勢いよくフェンスを越えて、李伊を強く抱きしめた。向こうへ行ってしまった。ひろ、ひろ、と彼を呼ぶ李伊の声が宏の腕に包まれて、か細い泣き声に変わる。
李伊には宏を引き付ける何かがあるのだ。あたしにはない何かが。欲張りなあたしは、李伊のそれも欲しかった。
でも持ってない。あたしは何も持ってない。
あたしには、宏の奥まで届くような手の長さも、どこからでももぎ取ろうとする力強さも備わってはいない。
――届いては、いけなかったのだ。
だからあたしはいなくなろうと決意したのに。
たくさんの仲間の一人になると決めて、大きく静かに息を吸い、足を踏み出そうとしたのに。
なのに。
気付いた時には、あたしの腕は好実を吹き飛ばしていた。
あたしはずっと、好実のようになりたかった。
↓
続、