26、届く
――あたし達なんて、ちっぽけなものなんだろうなあ。
目を閉じたまま、涼しい夜風を目一杯吸い込む。体全体に回りきると、あたしの熱と水分を含んだ吐息が口からたくさん出て行った。吹いてくる風があたしの吐息をさらって、頭の上に広がる透明の黒に溶けていく。吐息と共にあたしもさらって欲しいのに、あたしの体重と地球に繋がれた重力が邪魔をする。邪魔する重力の一部である足に固定されたピンヒールを脱いで隣に並べると、それだけで幾分体が軽くなった気がした。
ぶらぶらと裸になったあたしの足を少しだけばたつかせる。すうっとした空気が熱を吸い取ってゆく。ふと隣にあるかかとの高いピンヒールに目をやった。さっきの自分によって律義に並べられたそれは、まるで遺書と共に置かれているような、此処で一人の自殺志願者が死んだ、という典型的な痕跡に見える。あたしは死ぬ為にここに来たはずなのに、いつまでこうしているつもりなんだろう。
屋上に来てからどれぐらいの時間が経ったのかわからない。時計は持ってない、携帯は電源を切った、そして夜空の黒はあたしがここに来た時からなにも変わらず、遠いながらもそこに在った。
空気が揺れた。微かに。ぐるんと後ろを振り返ると、意外と遠くに屋上に繋がるドアがあったことに気付いた。ドアはあたしが来たときから開いたままのようだ。室内は外より全然暗いから、ドアの長方形だけが真っ黒く塗り潰されて見える。
「……え?」
長方形の黒から分離するもう一つの形があった。コンクリートを次々に蹴る音と共に、ぶれながらもまっすぐにこちらに向かってくるそれは、すぐに空からの透明さを取り込んで、あたしの知ってる人になった。
「……ひろ?」
「佑月!!」
あたしは裸足のまま立ち上がる。ざりざりしたコンクリートが素足に触れて、思ったよりもひんやりとした。フェンスのすぐ側まで走ってきた宏は、両膝に手をついて荒ぶる息と戦いながら、しっかりとあたしを見つめた。
「よかった……」
力無く笑った宏の目だけが、今にも泣いてしまいそうだったから。宏のアパートで感じた孤独感や疎外感や、何を見ているのか分からなかった機械的な宏が全て一つの塊になってとろとろに溶けて、あたしも泣きたくなった。ねえ、どうして来たの?
「……死ぬなよ」
呟くような宏の声が、あたしの耳に当たった。あたしは宏を強く見つめることしかできない。強く、強く。
「どうしてここが分かったの?」
そんな言葉しか出てこなかった。
宏はひょい、とフェンスを飛び越えて、さっきまでのあたしと同じように足をぶらぶらさせて座る。あたしも宏の隣に座った。
「探したよ、空が見えるところって死ぬほどあるから」
宏はそう言って、先が見えない夜空を見上げる。一色だけの空には、星もないし雲もない。いや、空の色をした広い雲が、全てを隠しているせいかもしれなかった。宏、あなたは何を隠しているの?
「好実に、聞いたの?」
「そうだよ、すげえテンパってた」
あたしの方を向いた宏の顔が、少し穏やかになっていたから、あたしも少し、頬を緩めた。
「でも好実、誰かと一緒にいたみたいだったから、あたしのことなんて気にしてないよきっと」
一瞬宏の眉間にシワが寄るのが分かった。
「……誰かって?」
「知らない。多分男の人だと思う。恋人かなんかじゃない?」
ふうん、と言いながらも、まだ何かを考えているような宏の横顔に向かって、あたしは一気に言葉を吐き出した。
「あたしのこと、どう思ってるの?」
人間は言葉無しで意志を伝え合う術を持たない。それはとても都合のいいことであって、とても不便なことでもあった。だから人間って面倒臭いのだ。だから人間って、難しいのだ。
空になれたら、と思う。空になれたら、全ては一つ。果てしなく大きくて果てしなく広い完全体の一部に、あたしはなれるのだ。個性なんていらない。違うところなんてない。同じ考え、同じ色に染まって、あたしの全ては誰かのものになる。でもそうなると、誰かを愛することも出来なくなってしまうんだろうな。
宏は少し考えるそぶりを見せた後、ゆっくりと丁寧に言葉を紡ぐ。
「大切に守りたいって思う。側にいると安心するし。俺が俺でいられるのは、佑月のおかげなんだよ」 どこまでが本当でどこからが嘘なのか、境目は綺麗に消されていた。宏の言葉は全部が本当に見えてしまうからズルい。
「本当?」
「ほんとだよ」
優しく微笑む宏の手が、あたしの頭を撫でる。宏のその大きな手が、あたしに届いたことが嬉しくて、あたしは綺麗に笑った。それを見た宏の切れ長の目が更にきゅっと細まって、あたしはこの人が好きだったんだと思い直した。
「あのね宏」
「ん?」
誰からも必要とされないあたしを大切だって言ってくれた、居場所を無くしたあたしに温もりを与えてくれた宏を、宏を信じたい。嘘や偽りなんていらない。そんなものよりホンモノが欲しいと思うようになった今のあたしは、欲張りになってしまったのかな。全てを確かめるために、あたしは小さな賭けに出る。
「李伊のことが好きなの? 愛してるの? ……それとも、この……」
バタン、と大きな音が静かな空気を乱れさせた。あたしの言葉は途中で切れて、今まで心の奥底に閉まっていたもやもやは、何倍にも何倍にも膨れ上がった。
そんな雑音なんて無視して、最後まで言ってしまえばよかった。
それがどんな答えだったとしても、あたしがあたしである今のうちに、聞いておくべきだったのに。
↓
続、