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25、届かない


 ぶつりとあたしから電話を切った。なによ、なによ。



――違うよ、誰も……


――嘘つき。



 少し強い風が向こうの方から駆けてきて、あたしの顔にぶつかる。風にとっても障害物であるあたしは、もうどこにも逃げ場がない。

 早く。仲間の元へと行かないと。あたしは今、本当に独りだ。カツカツと鳴り続けるヒールの音を少しだけ速めて、目星を付けたビルへと向かう。近づくにつれて、なんとも言えない際立つ虚しさが募るのは、そのビルから溢れる雰囲気のせいだ。大きくて無機的なオフィスビルに挟まれたその細長いビルはなんだかちっぽけで、一つだけ取り残された生き物のように見える。あたしと同じだ。

 下沢ビル、と彫られたプレートを横目で見て、真っ暗なビル内へと歩を進める。群れていた時のあたしなら、暗くてこわーい、お化け出そうー、なんて言って、側にいる誰かにくっついていたと思う。でもあたしは一人。そんなこそばゆい芝居なんかしなくても、もう何も失うものなんてない。もしここでお化けや幽霊に出会ったとして、取り付かれて殺されたとしても、あたしはむしろその人たちに感謝の言葉を述べたいと思う。だってそれなら人生の最期は独りぼっちじゃない。

 エレベーターは無く、入ってすぐのところに階段がずらりと規則正しく並んでいる。見上げると、真っ暗闇のなかで、一階と二階のちょうど半分の地点でちかちかと切れかけの電球が怪しく光っている。しん、と静まり返り風も通らない空気の塊の中で、電球が付いたり消えたりする音だけが、嫌にはっきりと耳に触る。この華奢なビルは、一体どれぐらいの高さがあるのだろう。小さな気合いを入れて、階段に一歩目の足をかけた。


 ヒールが階段に当たる音が静かなビル内に大きく反響している。上り続けるあたしの足は、もう疲れた、と文句を言うし、運動をしなれてない息は荒くなる一方で、階段は少しだけ騒がしくなる。


 上り始めてどれくらいの時間が経ったのか分からないけれど、やっと上り切った向こうにドアが見えた。壁に手を付いて、息を整える。長年放っておかれたのであろうその壁はあたしの皮膚に馴染まず、妙にざらざらした手触りを与える。ふうっ、と勢いよく息を吐いて、階段を上った。


 その鉄製のドアは、暗闇の中にひっそりと佇んでいた。人が自分を押し開けることを拒んでいるみたいで、ひどく錆び付いている。明かりが着いていたらきっと蜘蛛の巣だらけなんだろうな、と思ったが、見えない今は確認のしようがない。

「あ、」

 はたと気付く。鍵がかかっていたらどうしよう。また階段を下りて違う場所を探すか、いや、階段で転げ落ちて死ぬのもありかもしれない。わざわざ戻るのも面倒だし、さっさと空へ行ける。お化けか幽霊が出て来てくれるのが一番ありがたいのに。

 でも出来ることなら、もう一度地上から空を見ておきたいとは思うけど。なんて小さく呟きながら、ドアノブにそろり、と手をかける。良かった、蜘蛛の巣はかかってなかったようだ。くるりと回す。右手にぐっ、と力を入れると、重みのあるドアはギイイと軋むような泣き声を上げて、あたしと外を繋いでくれた。


 建物の中の暗さに比べると外の暗さなんて全然明るくて、だだっ広い透明な黒が、あたしを見下ろしている。すうっとした冷たい風が鼻から入って、熱くなった体中を駆け回るのを、ぼんやりと感じた。

 体力の無い疲れ切った両足は、ふらふらと頼りなく前に進む。少し高めのフェンスまでたどり着くと、両手を掛け、えいっ、と力を入れた。


「うわ、」

 デニムのスカートのせいで足がうまく上がらなくて、バランスを失うあたしの体。ふっ、と体が浮いたような気がして、あたしは慌ててフェンスを掴んだ。

 ハァハァと息は荒く、心臓のドクドクが全身に伝わる。それは一瞬で、あたしはそんな自分に驚き、呆れ、そして恐れた。


 死ぬのが怖いと、思ってしまった。


 意外とがっしりとした造りのフェンスは知らん顔で、呼吸が荒いあたしを冷ややかに見つめる。フェンスをしっかりと掴んだままの手は、少し震えていた。

 はあ、と長い息を吐き、あたしは上を見上げる。星は見えなかった。

 意気地無しのあたしは、このまま死ねないのだろうか。空にいる大勢の人達の仲間にはなれないのだろうか。もう誰にも寄り掛かることのない、たった一人のあたし。空はどこまでも暗くて遠くて、手を伸ばしてもまるで届きそうにもなかった。ついさっきまではすぐそこにあったのに。

 ふと無表情であたしを押し倒す宏の顔が浮かんだ。彼は空みたいな人だと思う。何とも思ってない時に近付いてきて、あたしがそれを意識すると同時に、同じスピードで離れていくのだ。あたしに覆いかぶさる宏の真っ黒の瞳には怯えるあたしが映っているだけで、宏の感情なんて微塵も映されてはいなかった。あの黒の向こうを、あたしは知らない。ねえ、一体何を考えているの。


――このみ


 彼が初めてあたしを抱いたあの時、宏が愛しそうに呼んだ名前があたしじゃなく好実だったことは、その時のあたしにとってはどうだってよかった。だけど今思えば、宏の中にいたあたしはあたしじゃなくて、じゃあ宏にとってのあたしはなんなんだろう。そもそも、どうしてあたしに手を差し延べたの?

 フェンスに背を向け、足をコンクリートの途切れたその向こうに投げ出して座る。ぶらぶらと空中をさまようあたしの両足に引っ掛かっている真っ赤なピンヒールが、なんだか妙に重力を感じた。

 ぼんやりと目の前に広がる建物だらけの地上。この中で狭苦しく生きているあたし達は、上から見れば見るほどちっぽけなものなんだろうなあ、なんてそんなことを思って、目を閉じた。



続、



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