24、サイカイ-3
「宏はあたしを追い出した。あの女と一緒に」
頭が混乱してきた。李伊と佑月と宏は同じ所にいたの?どうして?追い出したって何?
辺りを見回しても、わたし以外のみんなは表情をイチミリも動かさずに佑月を見ている。きっとこの中でわたしだけが理解出来ていない。矢田だって知らないはずなのに。
「宏にとってあたしは代わりだったんでしょ。好実の代わり、それから李伊の代わり。ずっと前からあたし自身には何の価値もないの。あたしの居場所なんて、あるように見えていただけで、本当はどこにもなかった」
あんたのおかげで踏ん切りが付いたわ、と佑月は、李伊に向けてカラリと言葉を放った。
澄んだ夜空から遠い地面へと滑り落ちる風の行く先に目をやる彼女の横顔からは、どこか穏やかな雰囲気すら漂っている。フェンスの向こう側は、なんだかこっちよりもゆっくりとした時間が流れているようだ。
「俺は代わりだなんて思ってな……」
「もういいよ、そういうのは」
ゆったりと流れる時間に逆らうように、急に跳ねたように宏が口を開いたけれど、佑月はまるで聞き入れなかった。
「あの女と手組んであたしを追い出したクセに。追いかけてもこなかったクセに。目も合わせてくれなかったクセに!」
最後の方は泣きそうになるのを隠すために張り上げているみたいだった。シンとした夜にキィンと響く佑月の声。勢いはどんどん増していく。
「李伊が好きなら好きって言いなよ! あたしが邪魔なら邪魔って言ってよ! ……あたし一人で馬鹿みたいじゃん」
小さくしぼんだ声は、微かに震えていた。宏は何も答えない。わたしの知らないところで起こっていた事実が色々ありすぎて、ついていけない。どうやら宏は佑月ではなくて李伊が好きみたいだ。でも一体いつからだろう。わたしに愛してるって言ったのが本当だとしたら、恐らくあの日以降からなんだろう。宏が嘘を付けない性格だってことは、このわたしがよく知っている。ということは、佑月に構っていたのはただの気の迷いだったってことかな。
正直な話、わたしは宏に呆れていた。わたしに愛を囁いてすぐに他の女に目移りした上、わたしには一切関わろうともしなくなった彼に。ああヤリ逃げされただけか、そういう男だったのか、と、幾度となく自分の見る目に病んだものだ。
でも宏が発したのは意外な言葉だった。
「俺には佑月も李伊も大事だ。それは嘘じゃない。だけど、……想い続けてるのは好実だけだ」
まるで答えになっていないと思った。宏の考えがわたしにはわからない。ただ混乱が大きくなるだけで、わたしは何も言えなかった。
「……好実の繋ぎってわけだ、じゃああたしになんか構わないで欲しかった」
「佑月、あのね、……」
「好実は黙ってて」
ぴしゃりと閉められて口をつぐんだ。特に言いたいことがあったわけではないけれど、きっと佑月は宏を誤解している。
「佑月ちゃん、」
今まで黙って話を聞いていた矢田がするりと言葉を挟む。どうして矢田の声は、何の違和感も感じさせずに周りの空気に溶けてしまえるんだろう。
「このみは僕のものだから、その心配はないよ」
その清々しい言い方はわたしの頭の中をぐるぐるとたくさん回って、酔いそうになった。李伊は自分には関係ないことだと判断したのか、静かに腕を組んだ。
「好実と宏は結ばれないってこと?」
「そう、僕がいるから」
ね、と矢田はわたしの方を向いて笑った。顔が引きつって、自分が今どんな顔をしているのか想像がつかない。わたしは宏を赦したい、それは本心だ。だけど矢田を壊してしまうことなんて出来ない。
「……好実はいいな、みんなから構われて。あたし、好実みたいになりたかった」
少しの沈黙の後に、ポツリと佑月がそんなことを言った。――わたしは一度だってそんな風に思ったことなんてないのに。
それに、と佑月は続けた。
「あたしは事件のこと知らないけどさ、きっと好実の為なんでしょ。分かるもん、そういうのって」
ちょっと羨ましいとも思ったぐらいよ、と佑月は矢田の目をちらりと見て皮肉な笑みを浮かべた。
目の前の宏の表情は固まったまま動かない。ねえ、今何を考えているの。
「俺には、……わからない」
斜め前から力無く飛んでくる声は、酷く掠れていた。
「俺には、それが人を、直を……殺す理由になるとは思えない」
緩やかに吹き続けていた風がぴたりと止んだから、李伊が、え、と小さく声を漏らすのが十分な大きさで聞こえた。
「え……ねえ、……どういうこと?」
李伊が声を潜めて聞いたのは矢田本人だ。矢田はわたしに言った時と同じように、ふわりと笑う。そして言った。「畑上はね、僕がヤッたの」
背筋がぞうっとして、鉛の入ったままの胸が重みに耐えられないというように、じりじりと凹んでゆく。どうしよう、もうすぐ穴が開きそうだ。肺が上手く機能してくれなくて、空気が吸えない。わたしは下を向いたまま動けずにいた。
――矢田を人殺しにしてしまったのはわたしだ。
「え……いや、あの、え? 嘘でしょ、だってどうし、て……」
李伊は相当うろたえているようで、息が浅くなっているのが分かる。そんな李伊の言葉が聞こえた途端、わたしの肩をごつごつした、それでいて美しい矢田の手が掛かり、力強く引き寄せられた。
「こいつの為」
嫌だ嫌だ、どうしよう、どうしよう、どうしよう。――もうこの場では、宏に「いいよ」なんて言えなくなってしまった。
わたしのせいで、みんなが狂っていく。わたしのようになりたいだなんて、佑月も狂っている。
李伊がわたしを見る目が変わったのが分かった。哀れみの視線だ。矢田はそれに気付いているのかいないのか、李伊に向けて更ににこりと微笑む。
「本当は卒業してすぐでもよかったんだけどね、宏雪に彼女が出来ちゃったからさ」
「……え?」
李伊の表情が固まった。
「誰か寄り掛かる人がいたら絶望感って薄れちゃうしさ、別れてからしばらく経った今ぐらいの時期がちょうど良かったんだよね」
李伊の元々大きい目は更に大きく見開かれ、瞳はうろうろと定まらなくなった。
「矢田あんた……知ってたの?」
「さあね」
涼しい顔で微笑みをたたえる矢田だけが、落ち着いた普段の息遣いだった。
「あたっ、あたしがっ、宏……あの、ひ、ろ……」
李伊の震える声は、確実に宏を必要としている。フェンスを隔てたところに立ち尽くしていた宏はハッとしてフェンスを越えると、李伊を強く抱きしめた。
「ひ、ろ……あたし、あのっ……」
「お前のせいじゃない」
力強くはっきりと宏は言い切った。李伊が泣いている。宏の腕の中で。こんな状況にも関わらず、李伊が羨ましいと思う自分がいた。だって大きな安心感に包まれる心地よさを、わたしは知っている。
矢田を見ると、さっきとは違う冷ややかな目で彼等を見ていた。高校の時、試合で良いタイムが出た時の矢田の弾けるような無邪気な笑顔を思い出す。タイムが思うように出なかったとき、悔しさに任せてじだんだを踏む矢田を思い出す。彼は一体どこに行ってしまったんだろう。
続けてわたしの視線は、フェンスの向こうに一人残された佑月に向く。二人が抱き合う様をぼんやりと見ていた佑月は、わたしの視線に気付いて少しだけ笑った。
――駄目だ
わたしの脳から指令が出されるより前に、わたしの体はフェンスを飛び越えていた。屋上とは逆の真っ暗な空間に体を向き直った佑月に、わたしは急いで抱き着く。
「だめ! 佑月! だめ!!」
「離して!!」
佑月の手はわたしの体を引きはがそうと必死だ。わたしの腕はそれ以上の力で暴れる佑月を押さえる。
「おい! やめろ!」
いつの間にかフェンスを越えてきていた矢田が佑月に手を伸ばした時だった。
「……え?」
久しぶりに聞いた矢田の大声に、一瞬気を許してしまったわたしが原因だと思う。力いっぱい振り切られた佑月の腕にわたしの体が押し負けて、
わたしは空を飛んだ。
↓
続、
最近更新が遅れ気味です。申し訳ありませんorz のんびりお相手ください。