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23、サイカイ-2


 ギイィ、と金属が擦れる音と共に、ドアが開いた。そこに在ったのは、階段の濁った色とは違う、広くて澄んだ黒だった。止まった途端にじわじわと体の中から熱がたくさん作られて、遠慮がちに吹いてくる風が額の汗に当たって冷たい。ハァハァと暴れる三人分の息を聞きながら、必死に目を凝らす。黒の空気の重なりの上にフェンスの影が邪魔をしているから、余計に見にくい。

「あ、」

 不意に李伊が声を上げた。彼女の人差し指の向こうには黒い塊が分かる、ような気がする。急に強い風が吹いたから、開けっ放しだったドアはバタンと大袈裟な音を立てて閉まった。澄んだ黒は次から次へとその音を伝えて、ついに屋上全体に響き渡ってしまった。静まっていた神聖な何かを揺らがせてしまったみたいで、わたし達は息継ぎで忙しい体を固くした。


「振り向いた」

「え?」

「佑月と宏がこっち見てる」

 口だけを小さく動かして李伊は言う。わたしと矢田が李伊の方を向いても、彼女の目は真剣で、一向にフェンスからそらされないままだ。

「……わたしには見えないんだけど」

「……僕も」

 もう一度フェンスの方を見ても、相変わらずぼんやりと塊が見える気がするだけだった。


「どうする?」

「え?」

「あっちに行く?」

「あ、えっと……」


 いつの間にか李伊の顔はわたしの方を向いていた。化粧っ気のない李伊の顔を、わたしは初めてちゃんと見た気がした。アイメイクをしていなくても充分過ぎる程大きい目は、キリッと上がっていて気の強さを強調させている。彼女の目力に飲み込まれたわたしは、しばし言葉を止めた。


「ていうかさ、僕等佑月ちゃんを探しに来たんだから、行かなきゃ意味ないじゃん」

 そう言って矢田がポンポンと背中を叩いてくれた。隣の矢田を見上げると、矢田の後ろに月が光っていた。今夜は三日月だ。



「佑月っ!」


 わたしの声は辺りに響いて一瞬で溶けた。弾かれたようにフェンスに向かって駆ける。人影が立ち上がるのが見えた。やっぱり佑月だ。勢いが上手くコントロール出来ず、フェンスに体当たりする格好になったけれど、わたしの目はちゃんと佑月を映していた。彼女を目の前にしてわたしの身体はやっと安心したのか、大きくて深い息が溢れて、強張っていた肩の力が抜けた。


「好実……」

「佑月、ごめんね。心配したよ」

「うん」


 微かに微笑む佑月は、フェンスに手もかけずにわたしを見つめる。柔らかそうな長い髪がわたしに向かって靡く。彼女の足元を見ると、すぐ後ろには地面は無く、ただ空気が積み重ねられて黒い色を作っているだけだった。


「危ない、よ」

「大丈夫」

「落ちちゃうかもしんないじゃん」

「それならそれでいいもん。最後に好実も宏も来てくれたし」

 十分だよ、と微笑みをたたえたまま宏の方を向いた佑月は、すぐに悲しそうな顔になった。口が小さく動いたようだったけれど、彼女が何を呟いたのか、わたしには分からなかった。


――そうだ、宏だ。


 佑月の隣で静かに立っている宏を見ると、すぐに目が合った。彼のその切なくも愛しそうな瞳は、ずっとわたしを見つめていたみたいだ。目が離せない。


「……好実、」


 表情は一つも変えないままで、宏はわたしを呼ぶ。懐かしい切れ長の目は夜のせいで、どんな色をしているのか分からない。声はさっき電話越しに聞いた時よりも大人びて聞こえた。


「好実俺……」

「わたしもごめん」

「……え?」

「わたしがちゃんと宏のこと見なかったから……だから」

 あの、えーと、とわたしは言葉が続かない。これ以上泣きそうな宏を見てられなかった。でもどうしよう、わたしの方が泣きそうだ。

 好実、ともう一度名前を呼ばれて下を向きかけた顔を上げた。宏は真っ直ぐにわたしを見ている。そうだ、彼はいつも正面からわたしを見てくれていた。


「本当に俺どうかしてた。……申し訳、ありませんでした」


 深々と頭を下げる宏を目の前にして、丁寧で綺麗なその頭の下げ方に、しばし見とれた。


「頭、上げてよ。もう……」

「僕は許さない」


 いいよ、って言いたかった。全てを赦す為のその言葉は、わたしの後ろから投げられた低くて透明な声によって遮られた。


「矢田……」


 いつの間にか矢田がわたしのすぐ側に来ていた。矢田の隣には事態を把握しきれていない李伊が、わたし達の顔を忙しそうに見ている。


「僕は絶対に許さないよ、お前は最低だ」


 矢田が淡々とした口調であまりにもきっぱりと言うもんだから、わたしはどうしていいか分からなくなる。わたしって弱い。

 わたしは宏を赦したい。でも、矢田の言うことは痛い程分かる。

 矢田はわたしの復讐の為に畑上くんを殺してしまったぐらいだもの。彼が宏を許せるわけがないことは、わたしが理解してあげないといけない。だってそうじゃないと、彼はただの殺人鬼だ。だけど本当はわたしの言動に全ての原因があったんだと思う。最低なのはわたしだ。詳細を知ったら矢田はどうなってしまうのだろう。壊れてしまったらどうしよう。心に刺がたくさん刺さって息苦しい。

 恐る恐る宏の方を見ると、彼はもう頭を上げて、やっぱり真っ直ぐに矢田を見ていた。その目はわたしに向けられていたそれとは少し違って見える。

「あの、あたし何にも分かんないんだけどさ、とりあえず二人ともこっち来なよ。落ちちゃうよ」

 遠慮がちに李伊がそんなことを言ったから、ここに来た本当の目的を忘れかけていたわたし達はハッとした。そうだ、まず佑月を。スイッチを入れ替えないと。


「ゆつ……」

「うるさい」

「え?」


 佑月はコンクリートが途切れた先に視線を投げながら、ぶっきらぼうに言い放った。夜風が佑月の髪をふわりと舞い上がらせて、こんな状況にも関わらず美しいと思ってしまった。


「結局好実ばっかり。あたしのことなんてどうでもいいんじゃない」

「佑月お前何言って……」

「あたしは、そこの女に裏切られて居場所を無くした。だからもう二度と他人と深く関わらないようにしようって思った」


 強い口調で宏を制して佑月は喋り始める。大きな瞳の視線の先はわたしを通り越して、李伊を睨んでいるようだった。


「でも宏があたしに居場所を与えてくれた。最後の居場所よ。……でもそれは嘘だった」

「……嘘って?」

「宏はあたしを追い出した。あの女と一緒に」


 その瞳は、噛み付くほどに鋭かった。



続、


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