20、子守唄
静かな部屋に、俺の鳴咽が細々と続いていた。李伊はそんな俺に滑らかな肌をくっつける。生暖かくてすべすべしていて柔らかくて、人間臭さをこれでもかと含んでいるその感覚に、酷く安心した。
「これからはあたしが側に居てあげる。だからもう忘れよ。ね」
その言葉はまるで、ヨリを戻そう、と言っているようだ。俺は何も言わず、ただ李伊の腕に顔を埋めた。李伊のことは大切だ。だけどそれは俺の過去を分かって欲しいわけでも、暗い気持ちに寄り添って欲しいわけでもなく、ただ何も考えずに安心して、罪を忘れる時間を過ごす為に必要だった。俺が俺である為に、必要なものだった。そしてこれからも、ずっと必要なものだ。
そういう意味では李伊もまた、俺を繋いでいる。
中学の時のサッカー部の写真をちらりと視界に入れると、12才の俺より先に、同い年の竜樹が笑いかけた。曖昧なことが大嫌いな竜樹のことだから、きっと今の俺を見たら大きな溜息を付くんだろうな。怒鳴りはしない。殴りもしない。その方がダメージが強いことを、奴は知っている。
李伊の乳首が頬に当たったけれど、甘える気にはならなかった。
突然だった。部屋の静かな空気を切り裂いて、携帯電話の機械音が鳴り響いた。結構気に入っているアーティストの曲のはずなのだが、なんだか安っぽく耳に障る。鳴り初めこそビクッと身を固くしたが、気の抜けた音楽に耳が慣れると途端に気分が萎えた。
「宏、鳴ってるよ」
促すように、李伊が腕を解いて音源の方に目をやった。テーブルが曲に会わせてブーン、ブーンと振動し、俺を待っている。
俺は裸のままベッドから立ち上がり、携帯を手に取った。知らない番号だった。
「……はい」
「あんたが一番近かったんじゃないの!? 何したのよ!」
ボタンを押して電話に出ると同時に叫ぶような声に押された。ボリュームが大きすぎるせいで声が割れて、上手く聞こえない。
「は?」
「佑月が! 佑月が死んじゃう! ねえ早く行って!」
電話の向こうでは風が鳴っている。息も乱れていた。どうやら相手は駆け足のようで、俺は状況が掴めない。大きすぎる声のせいで携帯から漏れた音に、ベッドの上から李伊が不思議そうにした。
「え、ちょ、何? 誰?」
「わたし! 好実! 早く!ねえ佑月どこよ?!」
――え?
電話の向こうでヒステリックに叫ぶ女性が三年間言葉を交わさなかった好実だなんて、そんなことがあるはずがなかった。だってどうして俺の番号を知っている?どうして佑月が俺の家を出たことを知っている?
――どうして佑月が死ぬなんて言える?
俺の脳みそはぐちゃぐちゃに絡まって、思考のスピードは衰えるばかりだ。ヒステリックな電話の奥の好実を、何故か客観的に見つめた。
「お前、……本当に好実?」
「そうよ、だからお願い話を聞い……」
「あの時は、」
切羽詰まる好実の声の出口を塞いで出て来たのは、ずっと俺の心を刺し続けてきたもの。身体の奥の奥に沈んでいたから、声に出すまでにたくさんの臓器を傷つけた。
「あの時は、……ほんとに俺、どうかして……」
「分かった、後でゆっくり聞くから。あのね宏」
やっとの思いで喉を通ったその言葉は、好実の優しいため息と諭すような主張に掻き消された。電話越しに風が弱まったのが分かった。少し立ち止まったようだった。
「今はそんなこと言ってる場合じゃないの。畑上くんが……殺されてるんだよ、その上佑月も死ぬかもしれないんだよ。分かってんの? わたしが傷付いたとかあんたが傷付いたとか、そんな比じゃないの。ねえ、死んだら何も残らないの。終わりなの」
「佑月まで……?」
直だけじゃなく、佑月まで。俺のせいで死ぬ?――いなくなる?
好実の話はまるで子供の頃、寝る前に聞かされた昔話や、子守唄に似ていた。一言一言がじいんと胸を熱くする、そんな不思議な力を持っていた。
――俺は一体、何をしている?
「だから佑月に何したのって聞いてるの。わたしも同じことしたってどういう…………あ、違う、そこ左」
声を潜めるように俺に向けられる声とは別に、少し離れた相手に張り上げられる声。意味もなく、ざわりとした。
「誰かいるのか?」
「わたしあんた達のとこに行くから。だから宏は空が見えそうなとこ探して」
俺の問いには答えなかった。好実は駅に向かってるんだと思う。でも一体誰と?
「空?」
俺が発言した瞬間に電話は切れた。少し躊躇った後、弾かれるように脱ぎ散らかしたままのトランクスを履いてTシャツに袖を通す。ベッドに置かれたジーパンを手に取ろうとした時、李伊の手が伸びて俺の手を押さえた。
「どこに行くの」
問い詰めるような李伊の鋭い視線に、構ってる暇はなかった。細い手を跳ね返して乱暴にジーパンを履く。
「佑月を探さなきゃいけないんだ」
財布と携帯を引っ付かんでバタバタとドアに向かう俺の腕に、李伊はしがみついた。
「行かないで!」
「え」
「あたしがずっと側にいてあげる。ね? 佑月のとこなんか行かないでさっきの続きしよう?」
裸のままの李伊は必死に訴える。一人の女性を追い続けてきた俺にとって、求められることは理想的なものだった。だけど、今は他に追いかけてやらなきゃいけない奴がいる。俺が助けてやらないといけないんだよ。佑月にとっての俺も、もしかしたら佑月とこの世界を繋ぐ為に必要なものだったのかもしれないと、ふと思い付いた。なんだ、俺と同じだったんだ。
「佑月が、死ぬかもしれない」
李伊が手にぎゅっと力を入れたのが分かった。
「……あたし、やっぱり宏じゃないと駄目なの」
「うん」
「だから、……」
「李伊も来る?」
「え?」
俯いて、今にも泣きそうでいた李伊にかける言葉として俺が選んだのは、全く先が見えないものだった。
「あたしも、行くの?」
「俺だけが行くのは許してくれないじゃん」
「……いいのかな」
俺には答えられなかった。多分これは、李伊と佑月を突き合わせてしまったが故に起きてしまった事件だ。李伊の言いたいことは痛いほど分かる。李伊を連れて行って佑月を見つけたとして、俺はその後どうしたらいいのか思い付かない。未来の俺はどうするのか、想像が付かない。でも今は。
「佑月を見つけるのが先だ」
「分かった。あたしも行く」
李伊もようやく状況を把握してくれたみたいで、見つけたら続きしようね、と、少しだけ笑った。
「うん、ほら早く服着て」
「うん」
時計を見ると、まだ二十二時を少し過ぎたぐらいだった。一日がこんなに長いなんて。李伊がササッと脱いだ服を着る様子を見ていると、ぐう、と腹の奥から泣き声が聞こえた。こんな事態でも腹は減るんだから暢気なもんだよな、とため息を付いて小さめの冷蔵庫に常備している袋入りの和菓子を二個、ジーパンのポケットにねじ込んだ。
俺はまだ、どこかに余裕があったんだと思う。
↓
続、