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19、緩む


 一限目のチャイムは透明な風を通して聞いた。灰色のコンクリートに落ちる影の中で、どこまでも広がる青空に目をやる。雲一つない嫌になるほど真っ青な空は、ツンと済ましてただ遠くに在った。俺の視線なんか微塵も感じていないようでなんだかやる瀬ない気持ちになったから、渇いたざらざらのコンクリートに視線を落とした。掴みどころがない綺麗すぎる空よりも、硬くて汚れた地面がいい。俺の心がもっと美しく澄んでいたのなら、見方は変わっていたのかもしれないけれど。

 空に見られている気がして堪えられなくなった俺は、重い鉄のドアを開けて薄暗い階段に腰掛けた。風に押されたドアがバタリと音をたてて閉まると、さっきまでの光に目が慣れていたせいで網膜がちかちかした。人があまり通らないために埃っぽいそこは、授業中なのもあってシンと静まり返っている。俺はくすんだ落書きだらけの壁にもたれ、ふうと息を吐き出す。心のざわざわを落ち着けるように。張り詰めた糸を緩めるように。


 パタパタと小さな足音が近づいてくる。それはすぐに顔を出した。

「あ、此処にいた」

 彼女は何も言えないままの俺を少し眺めてから、裏庭の方に行っちゃってたよ、と言ってそっと笑った。


「……佑月、授業は」

「宏だってサボってるじゃない」

 目の前の彼女から顔を背けた。格好悪い。すぐに喋ることを止めたがる喉のせいで、声が途切れる。やさしいため息が聞こえた。


「なんかあったの?」

「別に」


 佑月はそっか、と一言そう言って俺の隣に腰掛けた。ふわりと甘い香りがした。

「あたし、他人のこととか別に深く知りたいと思わないから」

 だから安心して、と笑う佑月は、どこかこの世界に一線引いているような気がして、なんだか寂しい。でもそんな対応が心地よく思える俺も、きっと寂しい人間なんだろうなあ。

「でも見てたろ、それでここに来たんじゃないの」

「まあね」

 佑月はカラッと答える。教室にいる時とはまるで別人だ。好実よりも柔らかな印象を受ける佑月は、ふわりと肩までの髪を揺らした。

「別に深く知らなくたってわかることはあるし、心配にはなるもん」

「何がわかった?」

 ええと、と少し迷ったような仕草をしたあと、「好実となんかあったのかなって」と、少し早口でそう言った。

 好実、という名前を聞いただけで、胸の奥の鉛が強く重くずっしりと感じられる。隠すつもりはなかったのだけれど、無意識のうちに笑おうとした俺の顔は、きっと不自然に見えていたんだろう。だってそんな俺を見て佑月は痛そうに微笑んだ。

「でも知らないから」

「ん?」

「あたしは雰囲気だけしか見てないから」

「うん」

「知るつもりもないから」

「うん」

「だけど側にいるぐらいはしてあげる。助けてくれたし、お陰であたし救われたの」

「うん」

「迷惑じゃなかったら、だけど」

「うん」

「聞いてる?」

「うん」

「泣かないでよ」

「泣いてねーよ」


 心に染みたんだ。まだ姿を見せない涙は目の奥で揺れている。こいつは強いな、と思った。冬休みが終わるまで彼女とはあまり関わりがなかったけれど、佑月が誰かしら人に依存していたのはみんな知っていた。彼女を一瞬でここまで成長させるぐらいの出来事が、いつの間にか起こってしまったんだ。ちゃんと佑月と目を合わせてから、ありがとうと言った。どういたしまして、と微笑む彼女の心の隅っこでは、きっとまだ事情を聞きたいんだろうな、無理してるんだろうな、なんていう捻くれた考えが少しだけ浮かんだけれど、本当に脳みそをかすったくらいだったから、何も考えない振りをして頬を緩めた。


 何も言わないで隣に座っている佑月は、俺とこの世界を繋いでいた。




**




――お前まで、そんな顔すんなよ

 佑月という薄い糸が切れてしまったら、支えを失ってしまう俺はここに居られなくなる。そもそもこいつを李伊と会わせたのが、間違っていたんだ。


 一体何をしているんだよ、俺は。


 心が、頭が、ぐちゃぐちゃに混ざってもう自分じゃいられなかった。弱虫で最低極わりない俺は、外の世界を怖がってしまってすっかり息を潜めて出てこようとしなかったから、代わりに前線に立たされた剥き出しの欲望が俺を支配する。――俺から離れないで。


――パアンッ


 狭いアパートの一室に響いたのは、初めて経験した平手打ちの音だった。一瞬時が止まって、左頬が熱を持ったことに気付く。気付いた時には、もう佑月はいなかった。

 佑月は俺が俺じゃなくなったことを知ったんだろう。そして右手で語った。目を覚ませ、と。


――いなくなんなって。お願いだから離れないでくれよ


 じんじんと響く左頬を気にすることもなく、李伊に被さる。痛みを忘れようとしているみたいだ。情けない涙が流れても、熱は少しも和らぐことはない。頬を伝った涙の粒は、李伊の瞼に降った。

「宏、大丈夫。大丈夫だからね」

 ぎゅっと俺を抱きしめる李伊の温かな体温とあやすような声に、涙は止まることを知らなかった。




 そしてその電話は鳴った。



続、



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