18、吠える
酷く色っぽい声が、嬉しそうに短く何度も声をあげる。俺はまるで言葉を忘れてしまったケモノのように、欲望に取り付かれるがまま、抵抗なんてしなかった。頭には何もない。あるのは消えない後悔だけで、目の前の状況が全く掴めていないにもかかわらず、俺の中のそいつは俺を支配し続ける。もう止まらない。何もわからない。
――野獣だ。
ふっ、とあの時の怯えるような好実が頭に浮かんで、ぴたりと手が止まる。仰向けになって俺に何もかも曝している李伊をまじまじと見ると、愛おしさと嬉しさとが混ざり合ったような、潤んだ瞳で彼女は俺を見つめた。それは確実に、俺を求める欲情した女の姿だ。
恐れられていない。ただそれだけで、俺は安心して小さく息をつく。続けてぐるりと後ろを向いた。
――……その顔、やめろよ
まるで狼に睨まれた兎のよう。立ちすくむ小さなその身体は震えてはいなかった。震えないどころか、微塵たりとも動かない。お前は何も知らない振りをして、俺のそばに居てくれるんだろ。なあ、確かにそう言ったろ。俺を救ってくれよ。
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「おはよ、佑月」
「……あ、おはよう」
相変わらず一人でぼんやりと携帯を触っている佑月に声をかける。佑月は周りを少し気にしながら、遠慮がちに微笑んだ。まだ李伊達は来ていないようだ。
クラスメートの前で佑月のペンを拾ったあの日から、俺は何かと佑月を気にかけていた。クラスメートの白々しい視線にも、もう慣れた。
「あーっ、ヒロだあ、おはよー」
とろりとした声が朝の教室に響いて、佑月の肩がびくっと揺れる。主犯グループでいつも最初に登校してくるのは、一番性格が丸いユウコだ。ユウコは攻撃する方ではないし、攻めのグループの一員にも関わらずその穏やかで素直な性格故に、意外と幅広い友達層を持っていた。
「ああ、おはよ、今日も早いな」
「まあねー、ヒロは今日も佑月に構ってるの?大変だねえ」
「そんなことないよ」
「やっさしーヒロ、あたし達にも相手してよう」
「おう、また今度な」
俺が付け足しの笑顔を見せると、ユウコはえへへと笑って自分の席へと歩を進める。ユウコが近くにいる間じゅう固まっていた佑月は、やっと僅かに息を吐いた。
陽の言っていた通り、不思議なくらいに俺は何もされないし、というよりも今のユウコのように、仲間外れの佑月をネタにして俺に構ってくる奴まで出てくるようにもなった。相変わらず仲間外れと小さなイジメはまだ続いていたが。
「宏、もういいよ、席に戻って」
クリクリとした大きな目で俺を見上げる佑月に対して湧くのは、恋愛感情ではない。そんな綺麗な俺ではない。
俺の渇ききった身体は、水でも栄養でもなくただ一つ、もう二度と手に入らないだろう好実の温もりだけを求め続けているせいで、完全に弱っていた。その飢えを逃れるために気を紛らせなければ、ちっぽけな俺は生きてはいけないのだ。だから。
佑月は俺を繋ぎ止めている。例え間違っていたとしても、ここまで来てしまった以上仕方がない。そう思っていた。
「ああ、じゃあいったん戻るわ」
うん、と嬉しそうな笑顔で佑月が頷くから、俺も優しく笑った。
――……あ、
「宏?」
目線を佑月から離した時だった。たった今教室のドアを引いた奴と目があって、俺は情けないほどたじろいだ。そいつは、いくつかの机と椅子を越えた俺と少しの間正々堂々と見つめ合った後、俺の側で不思議そうな顔の佑月をちらと見て、もう一度俺を見てからすぐに目を伏せてずんずんと歩いてくる。当たり前だ、佑月の二つ後ろの席なんだから。
キュウッと胃が縮むのを感じて、鼻から吸う空気が痛かった。目がそらせない。あの日を過ぎてから今日まで一度も、面と向かって見つめ合うことなんてなかったもんだから、俺は逃げていたんだと思う。それに、過去は薄れるものだという概念に甘えていたのだ。分かっていたのに、必死で目を伏せ続けてきたんだ。
好実の瞳は強かった。まるで俺のことは全て見通しているようで、今の俺の行動を「それは逃げだ」と相変わらずの率直な意見でグサリと刺された気がした。
――……じゃあどうすりゃいいんだよ
どこまでも正確で清く正しい好実の力強い瞳に、戸惑いもがいた末にぽつりと出て来たのはただただ情けない言葉だった。俺は本当に駄目な奴だと思う。そんな俺には見向きもせず、すっと俺の横を通って自分の席に座る好実は、早速机に俯せて寝る体勢をとった。
「宏?大丈夫?」
俺を見つめる佑月の声は確かに耳に入ったはずだったけれど、からっぽの頭を擦り抜けて消えた。
↓
続、