16、睫毛の先
「入りなよ」
さっきの冷たい氷のような鋭い視線は、嘘みたいに一瞬で溶けてしまって、優しく穏やかに笑う李伊がそこにはいた。
「え……と、あの」
縋るように宏を見上げても、宏の目はあたしには向かず、李伊の足元に視線は落とされたままだった。はっきりしないあたしに呆れているのかもしれない。
「ね、宏」
「……ああ、」
李伊の嬉しそうな笑顔に押し負けたのか、宏は軽くため息を付いた後、つられたように小さく笑った。
この女が何を考えているのかが、あたしには分からない。高校の頃からずっと、どれが本物の彼女なのか、あたしのことをどう思っているのか、――何がしたいのか、分からない。
陽が沈んでねっとりと薄暗いあたしの周りとは正反対の、眩しいほどの部屋の明かり。李伊と宏は、輝くそれを背に抱えてあたしを見つめる。それは惨めなあたしを救い出してくれる神々(こうごう)しい光のようにも見えたし、縋り付く欝陶しいあたしを遠慮なく突き落とす、冷たくてどこか濁った、あの日のミナやハルカの笑い声のようにも見えた。
「ほらぁ、」
「あ……うん」
じれったそうに李伊があたしの手首を掴んで部屋の中へと招き入れる。何時間か前に来たばかりの部屋のはずなのに、置かれた家具もサッカー部の写真もシーツのシワまでもが皆よそよそしくて、何だか間違えて別の人の部屋に入ってしまったみたいだ。
サッカー部の写真は、よく見たら中学生の時のものだった。背が低く小柄な昔の宏は友達に囲まれて、弾けるような笑顔で白い歯を覗かせている。あたしは宏のこんな顔、まだ見たことがないけれど。
「ああ、それね、宏が中一の時のだよ」
いつの間にか李伊が隣にいた。
「でも結局一年も経たずに辞めたんだって」
「どうして?」
――こんなに仲が良さそうなのに。
あたしなら、あたしなら。こんなに居心地の良さそうなところを手放すなんて、そんな勿体ないこと絶対にしないのに。
一人になるということに対する不安と恐怖を、宏は感じなかったのだろうか。
「引越ししたんだよ」
ね、と言って李伊は後ろを振り返る。ベッドの下に座って携帯に目を落としていた宏は、ん、と反応して顔を上げた。
「今でも仲いいみたいでさ、あたしも何回か会ったよ」
この人とねぇ、この人、と写真の宏の近くで笑う二人の少年を指さす。「あそうだ宏、たっちゃん達今どうしてるの?」と李伊がそんな話題を作るから、「たっちゃん」を知らないあたしは同じ空間からほっぽりだされる。
「ああ、竜樹ならこないだ来たよ」
「えーっ! 久しぶりに会いたかったなあ」
「また来るんじゃね、あいつのことだから」
あははと笑う李伊は、あたしの横をするん、と離れて、宏の隣に違和感なく収まった。
二人を囲む和やかな空気は薄くて少し曇った磨りガラスのようで、あたしには何が映っているのか、ぼんやりとしか見えない。あたしは何のために此処にいるのだろう、つまらない疑問が頭を掠めた。
「佑月さ、宏とどんな関係なの?」
「え」
急に言葉があたしの方を向いたから、あたしはたじろいだ。
「宏のアパートに来たってことはさ、なんか用があったんでしょ」
「……え、と」
「ふーん、用もなく来るんだ? ああ分かった、宏あんた手ぇ出したね」
――返事をしそこなった。
だって会いたかった、なんて言えない。李伊の方があたしより、断然宏に近い。李伊はあたしの返事なんて別に求めていないみたいで、隣に座る宏を睨み付けた。その目は面白そうに細められ、口元がふふ、と笑っている。
宏はそんな李伊をさらりと見て、ふい、とそっぽを向いた。それに伴って李伊がきゃっきゃとはしゃぐ。話を振られたはずのあたしは、何も言えなかった。
「まさか本気にしてないよね」
可笑しそうに、立ったままのあたしに声をかける。あたしに何も言わない、目も合わせない宏の気持ちを代弁してるつもりなのか、得意げに宏に寄り掛かりながらあたしを見上げる彼女は、紛れも無く、あの時の女だ。――あたしを、ハメた女だ。
誰の気持ちも知らないくせに。
「……宏の、彼女なの?」
搾り出した声には、感情が宿っていなかった。
「さあどーでしょーね」
李伊は楽しそうにくすくすと笑って、宏の腕に抱き着いて見せた。宏は何も言わなかったけれど、おもむろに振り返り、李伊の唇に軽いキスをした。
一瞬驚いた顔をした李伊だったが、すぐに可愛く微笑んで、今度は李伊から宏にキスをする。
長いキスだった。静かな部屋の張り詰めた空気を縫うように、舌と舌の絡まりあう音がいやらしく響いて、立ち尽くしているあたしの下半身が不覚にもじーんとした。泣きそうなあたしを、宏が李伊の頭越しにちらりと見た。
宏にとってはこういう関係の一人や二人、どうってことないんだろう。あたしだってもう二度と、誰の心にも踏み込まないと決めていたのに。
――こんなに悔しいのは何故だろう。
せっかく宏の瞳があたしを捕らえてくれたのに、あたしの方からそらしてしまった。
二人の音は尚もまだ、あたしの耳を舐め続けた。
↓
続、