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15、破れる


 宏のアパートは、電車をおりたらすぐそこだった。時間的にはもう夜なのに、まだ暗くなりきれてない夕闇はじわりと温くて、その上に虫が鳴いている声が小さく被さって、今日の昼過ぎに訪れた時よりも切なさが増している。ぼんやりと歩き始めるあたしを、スーツを着た男の人が早足で抜いていった。

 どこからか流れてきた風が当たった。冷たさや涼しさは微塵も感じられない、纏わり付くような湿っぽい風だったのに、なぜかそれが当たった瞬間、背筋がぞくっとした。何を感じたのか、何を予感したのか分からないけれど、あたしの体は恐れた。


 宏の部屋はアパートの二階だった。鉄の階段を踏み締める度、ヒールがカンカンと音を立てる。手摺りと壁の間に蜘蛛の巣が張られていた。主はいないようだったが、小さな蛾が引っ掛かりながらもまだ僅かにもがいている。もがく度にねっとりと絡み付く幾重にも張られた透明な糸に、徐々に命を吸い取られているようだ。

 あたしは階段の途中で立ち止まり、くすんだ黄色い羽を持つ小さな蛾が息絶えるのを、冷めた目でじっと見下ろしていた。

 それはあたしのような気がした。


 呼び鈴を押す。ドアの横の窓には、青紫色のカーテンがしっかりと閉じられていた。

「はい」

 しばらくして適度に低い宏の声が発せられると、それは機械を通してあたしの耳へと吸い込まれる。

 柄にもなく心臓が緊張しているのが分かる。待っていたの。この声を、聞きたかったの。

「ひろ」

 あたしの持っている目一杯魅力的な声を出したつもり。顔が見えない分、声色で伝えたい、あたしはあなたに会いたかったの、少し離れただけだけど、会いたくて仕方なかったの、と。


「どうしたの、忘れ物でもした?」

「えっと、違うの、あの、」


 なんだか急かされているようで、拒まれてしまいそうな気がして、急に意気地無しなあたしが顔を出した。そのせいで用意していた言葉が口の中でぐちゃぐちゃに混ざって、頭が真っ白になった。

 会いたくてまた来ちゃった、と、一息に言ってしまいなさいよ、弱虫なあたし。言わなくても気付いて欲しいだなんて贅沢なのよ、それにこの乙女心はきっと伝わらない。


「あの、えっと、会いたくて、あの」

「え?」


 あたしがどきまぎしていると、部屋の中をどたどた走る音が聞こえた。誰かいるのかな。そう思うのもつかの間で、青紫色のカーテンが、勢いよく開けられた。宏の部屋があらわになる。


「あ、」


 思わず漏れた声に答えるように、インターホンの奥で宏が叫ぶ。「李伊、開けんなって言ったろ!」と。

 バスタオルで濡れた髪を拭きながら、窓越しにあたしを見つめるその女は、目をぱちくりとさせた。

 髪の色は高校時代とは違って明るい茶色に染まっていたが、その懐かしい顔は何も変わっていない。どこからともなく湧いてくる恐怖感は紛れも無く、急に目の前に現れた、あたしをハメた女に対してのものだった。


「……なんで」


 口だけが少し動く。空気しか発せられなかったが、李伊はそれを見てにやりと口角を上げた。

 心の奥底に封をしていた思い出が、過去が、あの時が、あたしの体をぶち破って外に飛び出した。破られた体がひりひりと痛む。理解が遅れた手と足は、今更になってガタガタと震え出した。

「……ひ、ろ……」

――助けて。助けて、宏。あたしを、救いに来てよ。

 インターホンから音は切れて、続いてガチャリと中から鍵を外す音が聞こえる。


「宏……あの」

「今さ、李伊が来てんだ」


 長めの髪をかきあげながら、間が悪そうに宏は言う。その目はあたしの方を向いてくれないままで、明らかに、帰ってくれ、と言いたそうだ。

――惨め、だ。

 ここでもあたしは邪魔者だ、でももう行き場所がない。一人になりたくない。二年経った今でも、あの女はあたしの居場所を奪い続ける。次は何を奪うつもりなの。

 どれだけ彼女を憎いと思ったか分からない。だけど憎んだところで、弱者は弱者のままだった。カミサマはあたしを捨てたんだ、なんて、信じてもいない存在を呪ってみたりしたけれど、やっぱり何も変わらなかった。


「じゃ、」

 一回も目線を合わせないまま、一言宏はそう言ってドアノブに手をかける。その時宏の背後から、李伊がにゅっと顔を出した。口元が猫みたいに笑っているのは、彼女がワクワクしている証拠だ。バスタオルはもう持っていなかった。

「佑月、久しぶりだね、上がりなよ」

「ちょ、お前何言って……」

「いーじゃん、せっかく来たんだから」

 わけが分かっていなさそうな宏を持ち前の強気な笑顔で打ち負かす彼女は、宏とどんな関係なんだろう。あたしの知らない間に、二人の親密度はグーンと上がっているようで、なんだか不安になる。李伊がシャワーを浴びていたところを見ると、きっと今から二人の世界を作るところだったんだろう。

 あたしだけの宏じゃないことに、ショックを受けたりしない。そんなことはどうだっていい。あたしといるときに、あたしだけを見ているフリをしてくれるだけでいい。


 二年ぶりに再会したからか、李伊のあたしに対する対応は幾分柔らかくなっているように見えた。

――こんな人だったっけ。

 渋る宏を明るく説得している李伊を見ているうちに、意外にも手と足の震えは止まっていた。そうか、人は変わるものだ。もう過去とは違う。


 李伊と宏のほほえましい言い合いをぼーっと眺めていると、宏が李伊から目を離して、うーんと唸った。

 それは一瞬だった。

 李伊の目がジロリとこっちを向いて、口元だけが歪んだように笑った。




続、



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