14、痣
わたしの心が弾けた。
わたしの目に映る全ては一瞬にして、夏なのに凍えるくらいに冷え切ってしまった。その中心には矢田がいる。にこやかに笑う、矢田が。
がくがくと震える身体と定まらない焦点が、わたしの中の大好きな矢田が崩れ落ちる様を、粉々に散っていく様を、荒れた息の先で見つめた。
「嶋?」
「……いや」
「ちょ、嶋……」
「嫌!」
矢田の腕が伸びてくるのを振り払うのと同時に生まれたきっぱりとした否定語があまりにも大きくて、わたしの声に含まれる恐怖感に、自分でも息を飲んだ。
わたしに拒否された矢田の腕は大人しく退いて、代わりに身体全部がわたしにさらに近づく。
近すぎる、と思った。どうしよう逃げ場がない。
「いや、いやぁ、」
矢田の目が、鼻が、口が、睫毛が、すぐそこでわたしを見つめる。鼻がくっついてしまいそうで、その瞳に、取り込まれてしまいそうで、顔は反射的に横を向いた。わたしは両腕で顔の前にバツを作って、固くガードの形を作った。
「嶋……このみ、このみ、どうして?」
このみ、と呼び捨てにされたのは初めてだった。わたしの耳は一瞬びくんと反応したけれど、すぐにまた小刻みの震えに混じって消えた。矢田の柔らかな吐息がぶつかる。
わたしの口はまるで言葉を忘れた赤ん坊のように、「いや、いや、」を繰り返すだけだ。息が上がって鼓動も早くなって涙腺が震える。涙声になったその言葉たちは一層甲高くなって、わたしの興奮した気持ちを、さらに掻き立てた。
「このみ、僕だよ、怖くないよ」
顔の前で固く固くわたしを守っていたはずの両腕を矢田はひょい、とひとつかみにして、顔の前から外した。相変わらず、いや、いや、を続けるわたしの震える唇があらわになる。首を細かく、たくさん振った。
しかしながら目だけは、矢田からそらされることは許されていないみたいに、一向に動こうとしなかった。矢田の瞳は淋しそうな微笑みをたたえながら、威圧的にわたしを取り込む。暴れたがっているわたしの両腕を掴む右手の力だけは、その微笑みには似合わないくらい強くて、ふとあの日の宏を思い出した。――わたしがちゃんと宏のことを見てなかったから。
「ごめんなさい……ごめんなさいぃ……」
全部わたしのせいだ。矢田が殺人を犯したのも、畑上くんが死んだのも。わたしの。わたしの、わたしの、わたしの。
泣くことしかできない一人の無力なニンゲンには、どうすることもできない。なのに理不尽に、罪は重くのしかかる。罪悪感に潰される。
もどかしくて涙が溢れて、「ごめんなさい」を繰り返した。他に出来ることがない。
矢田はそんなわたしをしばらく見つめた後、何かを悟ったように強くわたしを抱きしめた。
人を一人殺してしまった矢田と、彼が人を殺す原因を作ったわたし。じいんとまた涙腺が熱くなった。分かってくれる、矢田となら。矢田となら、畑上くんに罪を償って生きていける。
矢田の体温が伝わって、よく抱きしめてもらっていたことを思い出した。
「宏雪にヤられたことを内緒にしていたことなら、もう気にしてないよ。ずっと気になっていたんだろう?」
「…………え?」
「それに、僕はすぐに気付いたんだから、もう謝る必要はないよ。僕たちは今日和解したんだから。だろ? まあ宏雪にこのみの身体を取られるなんて思わなかったから、僕も傷ついたんだけどさ」
――何を言っているの、この人は。
それはあやすように優しく紡がれた言葉だった。
言ってることは確かにわたしが思っていたことだ。だけどそれは畑上くんが殺される前のことで、今言っているのはそんな問題じゃない。
傷ついたとか傷つけたとか、それは問題ではあるかもしれない。けれど、でも、だって、今はそんなことじゃないでしょう。
――畑上くんを、殺してしまっているんだよ。取り返しが、つかないんだよ。
傷つく、だなんて、甘ったれたこと言ってる場合じゃないでしょう。
ちらりと小さなテレビに映るわたしと矢田がこちらを見つめているのに気付いた。音とこの奇妙な空気を取り込まないその黒い画面の中のわたしたちは、仲の良いカップルにしか見えない。
わたしの心は冷たくて無機質な鉄の檻で閉ざされた。嫌だ辛い、なら最初から期待することを止めればいい。あなたはもう一人で生きていきなさい。矢田に依存するのを止めなさい。急に冷めたもう一人のわたしの言うことに、反論する気は毛頭なかった。
ふわりと腕が解かれたと思うと、矢田の額がわたしの額とくっついて、こつんと音がした。矢田の口から、畑上くんの名前はもう出てくる気配すらない。殺人なんてまるで無かったかのように矢田は満足げに微笑んで、わたしに声を吹き掛ける。思わず目をつむった。
「好きだよ、このみ」
ああもっと早くにそれを聞けたなら。事件が起こる前に言われていたのなら、きっとわたしは舞い上がり、真剣に悩んで戸惑いながらもきっと、矢田の彼女になろうと決めていたはずだけれど。鉄で阻まれた今となっては、そこらに浮いている空気となんの違いもなかった。
わたしの喉は一向に音を作る気分にはならなかった。それでも矢田は嬉しそうにして、からっぽで冷たいわたしを引き寄せ、ゆっくりと丁寧にキスをした。
矢田の口の温度がそのままわたしの温度になる。飴玉を転がすように楽しげに動く矢田の舌に、抵抗することはしなかった。もうなんとも思っていない。心と身体は隔離された、なのに。
息が荒くなる、泣きたくなる、声が、漏れる。
檻の隙間から矢田の長い手が音もなくぬるりと侵入してきてわたしを見つけた。
――いやだ、感じてなんかない。
唇を離した矢田の微笑みは、今まで見た中で一番綺麗だった。矢田の指がわたしの涙を拭った後、不意に首筋に柔らかくて湿ったものがくっついた。
「あ、」
わたしの小さな驚きには目もくれず、矢田の唇はわたしの首筋に吸い付く。その場所はあの時と全く同じで、触れ方も、それに対するわたしの気持ちもほとんど同じで、デジャウ゛のようなおかしな感覚に襲われた。
矢田の白い歯がわたしを噛んで、唇で吸って、また噛んで、同じ方法で新しい痣ができるのだ。ただ少し違うのは、痣一つでは満足しなかった矢田は三つ程跡を残した。
「このみは僕のものだよ、誰にも渡さない」
わたしの濁った世界には、何もいらない。
虚ろな瞳で矢田を見上げても、無力なわたしは何も出来ないままだった。お姫様だっこをされ、ベッドへと運ばれる。ああこのまま矢田の愛情という名の元に身体を弄ばれ、意志とは関係なくわたしは溢れてもう一度痣を付け直される。
まるで遠い昔を思い出すようなぼんやりと霞んだ考えが、頭を満たす。
ちょうどベッドに落とされた時、わたしの携帯が大きな声で主人を呼んだ。
↓
続、