9-2、あの日のゆめ
「おはよー」
ガラ、と教室のドアを開けた。朝の教室は相変わらずざわざわが賑やかで、ほっとする反面息苦しい。ああ明日から冬休み。この間みんなとスケジュール帳をある程度埋める作業をしたから、暇で潰れそうになることはなさそうだけれど。授業がない分朝から夜まで必死に惨めを避け続けるだろうあたしにうんざりした。
それも仕方がない。寧ろ一人になれないあたしを守るための代償としては軽すぎるぐらいだ。
「あ、来たよ」
教室の奥であたしのグループの一人がそんな声を発したのが聞こえる。たいていドアの近くにいる好実も宏も、今日はいなかった。
化粧ポーチ以外は何も入ってないカバンを机に置いてすぐ、グループの元へと向かう。
「おはよー」
あたしの爽やかな挨拶に返事はなく、代わりに淡々とした口調で名前を呼ばれた。
「佑月、」
「ん?」
「あんた李伊に何したか分かってるの?」
いつもは穏やかなユウコが、一番始めに口を開いた。
「え、何したっていうか、」
――こっちが置いてけぼりにされたんだけど。そう言いかけて止めた。だって刺さるような李伊の視線が。ああそっか昨日の約束が。
――あのね、このことは誰にも言わないで欲しいの
置いてけぼりにされたことを口にしたらその前のこともバラすことになる。李伊が嫌がらせを受けていることは、あたしと李伊との二人だけの秘密。李伊との約束が、あたしを動けなくする。
――それがいけなかったんだ。もしここで李伊の視線なんて無視して真実を口にしていたら少しは変わっていたかも、なんて。もう後戻りなんてできやしないのに。
「何?言い訳するんだ。人気者は大変だね」
所謂ギャル、であるミナが口だけで笑う。何が、どうなっているのかわからない。真っ暗で何も見えないから、先へ進んでいるのか後ろへ戻っているのか、そもそも地面を踏み締めているのかすらもわからない。
あたしが李伊に何をしたっていうの。
「え、ちょっと待って、何の言い訳?」
「へえ」
答えになってなさそうで、きちんとした答えだった。
無駄だと。あたしの言葉は全て無駄だと。
「あたし本当に何もしてないの」
「よくそんな嘘付くね。李伊の体操服も財布も盗んだくせに」
呆れたような歪んだ笑顔をあたしに向けて大袈裟にため息を付くのは、ミナと瓜二つの格好をしたハルカ。あたし達は五人グループだった。けれどあたしに注がれた視線はもう、友達に向けたものじゃなかったから、きっと今は四人グループ対一人、なんだろう。体操服盗むとか変態じゃん、と一人が笑うと、ホントだよーと笑い声が重なる。
その場に立ち尽くすあたしだけが強張った顔をしていて、みんなの中心にいる李伊は冷めた目でちらりとあたしを見て、ほんの少しだけ口角を上げた。
「ちょ、待ってよほんとにやってな……」
「そもそもさー佑月ってよく告られたとか言ってるけどほんとなのそれ」
あたしの言葉を遮って誰かがそんなことを言った。あたしのような「卑怯者」の言うことは聞く気すら起きないんだろう。蓋が開いてしまった。勢いがついてどんどん流れが速くなる彼女達の口は動く。動く。
「あたし佑月が告られてるとこ、ていうかアピられてるとこすら見たことないんだけど」
「あたしもだよ、えーマジ作り話? サイテー。まああたし信じてなかったけど!」
「あんたのがサイテーじゃん」
ぎゃははと笑うその声は、気持ちが悪いぐらい濁って見えた。今まであたしもこの中で同じように笑顔を絶やさずに生きて来たんだと思うと、なんだか悍ましい。
それでも、と思う。どれだけ濁って見えても輝きを失っても、あたしにとっては大切な居場所だった。此処を追い出されたらあたしは何処へ行けばいいの。一人じゃ生きていけないのに。
彼女達の輪の中に入っているようで、あたし一人が完全な異物だった。誰かがまた妙なテンションのまま言葉を向けた。
「畑上のこともさあ、ホントは好きなんじゃん?」
「マジ? それはなくない?」
「ほら佑月黙ってんじゃん。絶対好きなんだって」
違う、といくら言おうとしても怖がって喉の奥にへばり付いてしまったあたしの声は、一向に出てこようとしなかった。
ああ仲間が壊れる。居場所が壊れる。あたしは夢を、見ているのかな。
あそうだ、終業式じゃん、体育館行こうよ、と彼女達の仲間が言ったから、あたしはざわざわに紛れて凍り付いた息をゆっくりと吐き出す。すぐにいなくなる彼女達の後ろ姿を眺めていると、後ろから畑上くんがてくてくと歩いてきてあたしを抜いた。呆れた横顔だった。
終業式はいつの間にか終わってまた戻ってきた教室で、あたしには何も無くなったことを知った。
塊になって盛り上がる李伊のグループから遠く離れた自分の席で、あたしは静かに堪えていた。ぎゅっと握る短すぎるスカートが、手汗で湿った。
今までずっと群れてきたあたしが一人でいることに、クラスのみんなは気付いているはずなのだけれど誰ひとりとして話し掛けてこないのは、さっきの言い合いの音量が必要以上に大きかったから。
例え原因が気になったとしても、仲間外れにされた敗者に話を聞きに来る勇気のある人なんていない。李伊達勝者、例えあたしが悪者になっているんだとしても、立場の強い彼女達に質問は投げかけられ、尾鰭が付き背鰭が付き、ああきっともうすぐこのクラスの人達はあたしを軽蔑の目で射る。そうして綺麗にはめられたあたしはとんでもない犯罪者になる。
明日から冬休み。長いようで短い、無気力で退屈な日々の先に待っているだろう孤独極まりない惨めな日々に、あたしは堪え切ることができるだろうか。
必死に守ってきた「惨めじゃない自分」が、呆気なく粉々になって教室の床に散った。
↓
続、