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「お前の枕など必要ない」と婚約破棄された地味令嬢ですが、実は王国唯一の『眠り姫の守護者』でした。王子様、あなたが不眠で崩壊しても、もう遅いですわ

作者: uta
掲載日:2026/03/10

「——今日をもって、お前との婚約を破棄する」


王宮の大広間に、第二王子カイル・ルミナスの声が高らかに響き渡った。


シャンデリアの光が降り注ぐ中、私——エリーゼ・フェザーダウンは、まるで他人事のようにその言葉を聞いていた。


(ああ、とうとうこの日が来たのね)


周囲を見渡せば、煌びやかなドレスを纏った貴婦人たちが扇の陰でくすくすと笑っている。貴族の紳士たちは憐れみとも嘲りともつかぬ視線を私に向けていた。


「エリーゼ・フェザーダウン」


カイル殿下は、私の名を呼ぶ。かつて、安眠の中で何度も甘く囁いたその唇で。


「君の添い寝係としての役目は終わりだ。退屈な子守唄など、もう必要ない」


殿下の傍らには、夜を溶かしたような黒髪の女性が寄り添っていた。ミレーヌ・シャルール。三ヶ月前に社交界に現れ、瞬く間に殿下の心を奪った新たな寵姫。


「ミレーヌのほうが、よほど心が安らぐのでね」


ミレーヌは妖艶な微笑みを浮かべ、殿下の腕に自らの手を絡ませた。その紫水晶の瞳が、一瞬だけ私を見て——冷たく嘲笑う。


(三年間、毎晩どれほどの魔力を消費して、あなたの悪夢を祓ってきたか)


私は深々と頭を下げた。淡い亜麻色の三つ編みが、肩からさらりと落ちる。


(ご存知ないのでしょうね、殿下)


「かしこまりました」


私の声は、自分でも驚くほど穏やかだった。


「三年間のご愛顧、感謝申し上げます」


顔を上げると、カイル殿下は僅かに眉を顰めた。きっと、泣いて縋りつく私を期待していたのだろう。あるいは、怒り狂って醜態を晒す姿を。


残念ながら、私にそのような気力は残っていなかった。


三年間——毎晩、殿下の寝室に控え、悪夢が訪れる度に子守唄を歌い、魔力を込めた膝枕で安眠を守り続けた三年間。その全てが『退屈』の一言で片付けられた。


(ええ、殿下。私も、とうに疲れ果てていましたわ)


「荷物をまとめ次第、城を出ます」


踵を返そうとした私の背中に、甘い声が投げかけられた。


「あら、エリーゼ様。寂しくなりますわね」


ミレーヌの声は、眠りを誘うような甘さを帯びている。だが、私の耳には——その奥に潜む毒が、はっきりと聞こえていた。


「殿下の安眠は、私がお守りしますから。どうぞご安心を」


私は振り返らなかった。


(安眠を守る、ですって?)


微かに笑みが漏れそうになるのを、唇を噛んで堪える。


(あなたに、それができるものなら)


大広間を出る私の足取りは、誰の目にも惨めに映ったことだろう。追放される婚約者。王子に捨てられた地味な令嬢。


けれど私の心は、不思議なほど凪いでいた。


◇◇◇


私室に戻り、最低限の荷物をまとめる。


侍女のフィーネが、涙を堪えながら私の傍に立っていた。栗色の髪をお団子にまとめた彼女の丸い瞳から、今にも雫がこぼれ落ちそうだ。


「エリーゼ様、私もお供します!」


「いいえ、フィーネ。あなたは残りなさい」


私は書棚から、革張りの帳面を一冊だけ抜き取った。『安眠記録帳』——七十二冊あるうちの、最後の一冊。


「いつか、真実を伝える時が来るわ。その時まで、残りの記録帳を頼みます」


フィーネの目から、大粒の涙が零れ落ちた。


「エリーゼ様は、毎晩どれほど——」


「知っているのは、あなただけよ」


私は微笑んだ。三年間、誰にも気づかれなかった献身。誰にも評価されなかった犠牲。


それでも、たった一人だけ、見ていてくれた人がいた。


「七十一冊は、殿下の元に置いていきます。どうせ、私にしか読めない暗号ですけれど」


母から受け継いだ特殊な記述法。フェザーダウン家の枕師だけが解読できる、安眠の記録。


カイル殿下の悪夢の傾向、有効だった子守唄の種類、消費した魔力の量——全てが記されている。


(いつか、その価値に気づく日が来るでしょう)


私は窓の外を見た。夕陽が王都を茜色に染めている。


(でも、その時にはもう——遅いのですわ、殿下)


◇◇◇


王宮を追われた私を待っていたのは、実家からの勘当状だった。


「父上」


フェザーダウン伯爵邸の応接間。私の前に座る父——オルランド・フェザーダウン伯爵は、私と目を合わせようとしなかった。


「エリーゼ。お前を、勘当する」


震える声だった。かつて母に似ていると言って、私の亜麻色の髪を撫でてくれた手が、今は膝の上で固く握られている。


「王家のご不興を買った者を、家に置いておくわけにはいかぬのだ」


(分かっていますわ、父上)


私は静かに頷いた。


没落しかけたフェザーダウン伯爵家にとって、私と王子の婚姻は最後の希望だった。それが潰えた今、私を庇う余裕などあるはずがない。


「行く当てはあるのか」


父の問いに、私は首を横に振った。


枕師の技術を持つ私を雇おうという貴族家は、王家の機嫌を損ねることを恐れて名乗りを上げないだろう。かといって、平民として生きる術も持たない。


「北へ行きます」


口をついて出たのは、そんな言葉だった。


「北……ヴァッヘン辺境領か」


父の顔が、僅かに強張った。


『眠らずの悪夢公』——レオンハルト・ヴァッヘン辺境伯。七年前の魔物戦争で呪いを受け、一切眠れなくなったという噂の領主。その領地は『眠らずの地』と呼ばれ、住民すらも不眠に悩まされているという。


「あの地ならば、枕師の技が必要とされるかもしれません」


「しかし、あの辺境伯は——」


「王家の目も届きませんわ」


私は立ち上がった。


父は何かを言いかけ——結局、何も言わなかった。


扉に手をかけた時、背後から小さな声が聞こえた。


「……すまぬ、エリーゼ」


振り返りはしなかった。振り返れば、きっと私も泣いてしまう。


(父上も、この家を守るために必死なのですわ)


◇◇◇


王都を出る馬車の中、私は窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。


懐には、母の形見の羽根のブローチと、最後の一冊の安眠記録帳。それだけが、私の全てだった。


(母上)


十年前、『過労』で亡くなったとされる母。王家のために魔力を使い果たしたのだと、幼い私は後になって知った。


(私は、母上のようにはならない)


馬車が揺れる。北へ向かうにつれ、空気が冷たさを増していく。


三日後——私は、雪に覆われた辺境の城門の前に立っていた。


「何者だ」


門番の声は、警戒に満ちていた。無理もない。こんな辺境に、王都風の身なりをした女が一人で訪れるなど、怪しいに決まっている。


「フェザーダウン伯爵家の——」


言いかけて、口を噤んだ。私はもう、勘当された身だ。


「枕師の、エリーゼと申します」


門番が眉を顰める。


「枕師?」


「眠りを守護する者です。辺境伯様のお役に立てるかと思い、参りました」


嘲笑が返ってくるかと思った。しかし、門番の表情は複雑に変化した。


「……待っていろ」


城門が軋みながら開く。


雪が舞い落ちる中、私は『眠らずの地』へと足を踏み入れた。


(レオンハルト・ヴァッヘン辺境伯)


七年間、一睡もできないという。


(もし、私の力で眠らせることができたなら——)


私の中で、小さな希望が灯った。


王都では『退屈』と切り捨てられた私の技。この地でなら、その真価を証明できるかもしれない。


◇◇◇


ヴァッヘン城の大広間は、王宮とは比べ物にならないほど質素だった。


石造りの壁には武具が飾られ、暖炉の火が揺らめいている。しかし私の目を引いたのは、玉座に座る男だった。


銀灰色の髪を無造作に後ろへ流し、紫紺の瞳には深い隈が刻まれている。身長は百九十センチを優に超えているだろう。鍛え抜かれた体躯は、戦士としての風格を漂わせていた。


左頬から顎にかけて、呪いの傷痕が薄く残っている。


レオンハルト・ヴァッヘン辺境伯。『眠らずの悪夢公』。


「……枕師、だと」


低く掠れた声だった。七年間の不眠が、この男からどれほどのものを奪ってきたのか——その声だけで、痛いほどに伝わってきた。


「はい。眠りを守護する者でございます」


私は深々と頭を下げた。


「王都から来たそうだな」


「……追放された身でございます」


隠しても意味がない。この辺境にも、いずれ噂は届くだろう。


「第二王子に婚約破棄され、実家からも勘当されました。行く当てもなく、この地に参った次第です」


沈黙が落ちた。


辺境伯の傍に控えていた銀の鎧の騎士——短く刈り込んだ白い髪の女性——が、鋭い視線を私に向けている。


「閣下」


騎士が口を開いた。


「王都の者など信用できません。追い返すべきかと」


「リーリア」


辺境伯が片手を上げ、騎士を制した。


「……七年だ」


独り言のような呟きだった。


「七年間、俺は一睡もしていない」


紫紺の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。


「王都から名医も魔術師も呼んだ。聖女と名乗る者も来た。誰一人、俺を眠らせることはできなかった」


「存じております」


「それでも、やれると言うのか」


私は顔を上げた。


「やってみなければ、分かりません。ただ——」


言葉を切り、一歩前に出る。


「私は三年間、王家の呪われた血を持つ殿下の安眠を守り続けました。どのような悪夢も、私の子守唄で祓えなかったことはございません」


辺境伯の目が、僅かに見開かれた。


「……試してみるか」


立ち上がる辺境伯。その巨躯が、私を見下ろす。


「失敗したら、追い出す。それでいいな」


「もちろんでございます」


◇◇◇


辺境伯の私室は、城の最上階にあった。


簡素な寝台と、書物が積まれた机。窓からは、雪に覆われた領地が一望できる。


「ここで夜を過ごす。眠れぬままに」


辺境伯は窓際に立ち、外を見つめていた。


「毎晩、領地を巡回していると聞きました」


「眠れぬのだ。ならば、せめて民のために使う」


(この方は——)


私の胸に、不思議な感情が湧き上がった。


カイル殿下とは、何もかもが違う。自分の苦しみを、他者のために昇華しようとする姿勢。


「辺境伯様、お座りください」


私は寝台の傍らに跪いた。


「……何をする」


「膝枕でございます」


辺境伯が目を見開く。その表情が、初めて年相応の戸惑いを見せた。


「膝枕、だと……?」


「枕師の基本でございます。私の膝の上に頭を乗せてください。そして——」


私は、母から受け継いだ旋律を口ずさみ始めた。


それは、古代ルミナス語で綴られた子守唄。眠りの聖女が歌ったと伝わる、安眠の呪歌。


魔力が、声に乗って流れ出す。


辺境伯の体が、微かに揺らいだ。


「な、に……」


「お休みください、辺境伯様」


私は優しく微笑んだ。


「今宵は、私が悪夢を祓います」


辺境伯の瞼が、ゆっくりと落ちていく。七年間、決して閉じなかったその目が——


静かに、閉じた。


規則正しい寝息が聞こえ始めた時、私は初めて、この地に来て良かったと思った。


(この方は、眠れる)


窓の外では、雪が静かに降り続いていた。


◇◇◇


辺境伯が目を覚ましたのは、夜が明けてからだった。


「……俺は」


寝台の上で身を起こした辺境伯は、自分の手を見つめ、次に窓の外を見た。朝陽が雪原を照らしている。


「眠った、のか」


「八時間でございます」


私は寝台の傍らに座ったまま、穏やかに告げた。一晩中、魔力を流し続けた疲労で、少し声が掠れている。


「途中、三度ほど悪夢が訪れましたが、全て祓いました」


辺境伯が私を見た。その紫紺の瞳に、信じられないものを見るような光が宿っている。


「……七年だ」


「はい」


「七年間、一睡もできなかった」


「存じております」


「それを、君は——」


辺境伯の声が震えた。あの威圧的な『眠らずの悪夢公』が、まるで子供のように瞳を潤ませている。


「君は、何者だ」


私は微笑んだ。


「ただの枕職人の娘ですわ」


◇◇◇


扉が勢いよく開いた。


「閣下!」


飛び込んできたのは、昨日の騎士——リーリア・フロストだった。氷青色の瞳が、寝台の上の辺境伯と、その傍らの私を交互に見る。


「閣下、まさか——」


「眠った」


辺境伯の言葉に、リーリアが凍りついた。


「眠った……?」


「七年ぶりに、一晩中眠った」


沈黙が落ちた。


リーリアの目に、涙が溢れた。


「閣下……!」


彼女は膝から崩れ落ち、両手で顔を覆った。


「七年……七年も、ずっと……」


辺境伯が寝台から降り、騎士の傍に跪いた。


「リーリア。お前には、心配をかけた」


「私は、何もできなかった……閣下をお救いすることが、できなかった……」


リーリアの嗚咽が、部屋に響く。


(この方たちは、ずっと苦しんでいたのね)


私は静かにその光景を見守った。七年間の重みが、今、解放されようとしている。


やがて涙を拭いたリーリアが、私に向き直った。


「……あんた」


敵意は消えていた。代わりに、複雑な感情が瞳に浮かんでいる。


「あんた、悪くないね」


彼女なりの、最大の賛辞なのだろう。


「ありがとうございます」


◇◇◇


その日から、私はヴァッヘン城に滞在することになった。


毎晩、辺境伯の寝室を訪れ、膝枕と子守唄で安眠を守る。最初の夜ほど魔力を消費することはなくなった——辺境伯の体が、眠り方を思い出し始めたのだ。


「今日も、来てくれたのか」


寝台に腰掛けた辺境伯が、どこか照れくさそうに言う。


「当然でございます。これが私の務めですから」


「……務め、か」


辺境伯の声に、微かな寂しさが混じった。


「違うのか」


私は首を傾げた。


「いや、何でもない」


辺境伯は私の膝に頭を乗せ、目を閉じた。


「君の声を聞いていると、安心する」


「……ありがとうございます」


「眠れなくても、構わないと思う時がある」


「え?」


「君がそばにいるだけで、この胸が安らぐのだ」


私の心臓が、一拍跳ねた。


(この方は、何を言っているの?)


辺境伯の寝息が聞こえ始める。私は彼の銀灰色の髪をそっと撫でながら、自分の頬が熱くなっていることに気づいた。


カイル殿下には、一度も言われなかった言葉。


私の存在を、認めてくれる言葉。


(レオンハルト様は——)


窓の外では、今夜も雪が静かに降り続いていた。


◇◇◇


エリーゼが辺境へ旅立ってから、三日後——。


カイル・ルミナス第二王子は、悪夢にうなされていた。


「……っ!」


跳ね起きた体は、汗でびっしょりと濡れている。喉がひりつき、心臓が破裂しそうなほど脈打っている。


「殿下!」


駆け寄ってきたのは、ミレーヌだった。夜着姿の彼女が、心配そうにカイルの顔を覗き込む。


「大丈夫ですか? また悪夢を……」


「水を」


カイルは掠れた声で言った。震える手でグラスを受け取り、一気に飲み干す。


三日前まで、こんなことはなかった。エリーゼがいた頃は、毎晩ぐっすりと眠れていたのに——。


(まさか)


嫌な予感が、脳裏をよぎる。


「ミレーヌ、君の子守唄を」


「はい、殿下」


ミレーヌの甘い声が、歌を紡ぎ始める。眠りを誘うような、妖艶な旋律。


しかし——。


(眠れない)


カイルは目を閉じたまま、眉を顰めた。ミレーヌの歌声は心地よい。だが、眠りは訪れない。


いや、むしろ——。


(頭が、痛い……)


◇◇◇


王宮の執務室で、宰相セバスティアン・ローレルは深いため息をついた。


「殿下、本日の外交会議は……」


「分かっている」


カイルの声は、かつての覇気を失っていた。目の下には濃い隈が刻まれ、金髪は艶を失いつつある。


たった一週間。エリーゼが去ってから、たった一週間でこの有様だ。


「五カ国の大使がお待ちです」


「ああ……」


会議室へ向かうカイルの足取りは、明らかにおぼつかない。


セバスティアンの胸に、嫌な予感が広がった。


◇◇◇


会議は、惨憺たる結果に終わった。


「ルミナス王国は、我々との条約を軽視するのか!」


隣国の大使が、怒りに顔を紅潮させて立ち上がる。


無理もなかった。会議の最中、カイルが居眠りをしたのだ——それも、三度も。


「殿下、これは国際問題になりかねません」


セバスティアンの声も、さすがに厳しさを帯びていた。


「分かっている! 分かっているが……」


カイルは頭を抱えた。


「眠れないのだ。夜も、昼も、悪夢が……」


その言葉を聞いて、セバスティアンの表情が凍りついた。


(まさか、エリーゼ嬢の……)


彼は思い出していた。三年前、カイルの不眠症が悪化し、政務に支障が出始めた頃。フェザーダウン伯爵家の令嬢が婚約者として迎えられ——そして、嘘のように症状が改善したことを。


「殿下」


セバスティアンは慎重に言葉を選んだ。


「エリーゼ嬢を、呼び戻されては——」


「あの女など、必要ない!」


カイルの怒声が響く。しかし、その目には焦燥と不安が見え隠れしていた。


「ミレーヌがいる。彼女の方が、よほど……」


言いかけて、カイルの顔が歪んだ。激しい頭痛が襲ってきたのだ。


◇◇◇


執務室を出たセバスティアンは、侍女のフィーネを呼び止めた。


「エリーゼ嬢が残していった記録帳、あれはどこに」


「殿下のお部屋に、七十一冊全てございます。ですが……」


フィーネは困惑した表情を浮かべた。


「私も見てみましたが、何が書いてあるのか、全く分からないのです」


「分からない?」


「はい。文字のようですが、どの言語とも異なります。まるで暗号のような……」


セバスティアンは眉を顰めた。


(あの記録帳には、殿下の安眠に関する全てが記されているはず。だが、解読できないのであれば……)


足元が、ぐらりと揺らぐような感覚があった。


エリーゼ・フェザーダウン。あの控えめな令嬢が、実は——王家の安眠を、一身に支えていたのかもしれない。


(愚かな。何と、愚かなことを……)


セバスティアンは窓の外を見た。王都の空は、どこか暗く、重苦しかった。


◇◇◇


ヴァッヘン辺境領に、変化が訪れていた。


「エリーゼ様、本当にありがとうございます……」


村の老婆が、涙ながらに私の手を握った。彼女の孫——五歳の少年は、私の膝の上で安らかな寝息を立てている。


「七年間、この子は一度もぐっすり眠れたことがなくて……」


「呪いの影響ですね。でも、もう大丈夫ですわ」


私は微笑んで、少年の頭を撫でた。


辺境伯の不眠を癒してから、一週間。私は城を出て、領内の村々を巡り始めていた。


『眠らずの地』と呼ばれたこの領地。その住民たちもまた、七年前の呪いの影響を受けていた。不眠に悩む者、悪夢に苛まれる者、夜になると正気を失う者——。


一人ずつ、私は彼らの安眠を守っていった。


◇◇◇


「エリーゼ殿」


村を後にする私の馬車に、リーリアが並走してきた。


「閣下がお待ちです。今夜は城にお戻りを」


「辺境伯様が?」


「はい。……最近、閣下は落ち着かないご様子で」


リーリアの声に、微かな含み笑いが混じった。


「あんたがいないと、眠れないわけじゃないのに。そわそわして、窓の外ばかり見ていらっしゃる」


私の頬が、ほんのり熱くなった。


◇◇◇


城に戻ると、辺境伯が玄関で待っていた。


「……遅かったな」


「申し訳ございません。村の方々の治療に時間がかかりまして」


「いや、責めているわけではない」


辺境伯は、どこか居心地悪そうに視線を逸らした。


「領民から報告が来ている。皆、久しぶりに眠れたと喜んでいるそうだ」


「光栄でございます」


「君の力は、本物だな」


「……ありがとうございます」


その言葉が、胸に染み入った。


カイル殿下は、一度も言ってくれなかった。私の力を認めてくれたことは、一度もなかった。


「エリーゼ」


辺境伯が、私の名を呼んだ。敬称も何もなく、ただ名前だけを。


「俺は、君に……」


言いかけて、辺境伯は口を噤んだ。


「いや、何でもない。今夜も、頼む」


「はい、辺境伯様」


「レオンハルト」


「え?」


「レオンハルトと呼んでくれ。……君だけは」


私は目を見開いた。辺境伯——いえ、レオンハルト様は、耳まで赤くしながら私から顔を背けている。


(この方は、本当に——)


「かしこまりました、レオンハルト様」


私の声も、少し震えていた。


◇◇◇


その夜、レオンハルト様は私の膝の上で眠りにつきながら、呟いた。


「王都に、帰りたいか」


「いいえ」


私は即答した。


「この地が、私の居場所ですわ」


「……そうか」


レオンハルト様の表情が、微かに和らいだ。


「俺は、君にいてほしい」


「え——」


「眠れるから、ではない。君がいると、安らぐのだ」


私の心臓が、激しく鳴った。


「俺は口下手で、不器用だ。だが、君の価値は分かるつもりだ」


「レオンハルト様……」


「だから——」


眠りに落ちる直前、レオンハルト様は囁いた。


「ここにいてくれ、エリーゼ」


私は答えられなかった。ただ、彼の銀灰色の髪を撫でながら、静かに子守唄を歌い続けた。


胸が、温かかった。


◇◇◇


王都では、事態が加速度的に悪化していた。


「父上まで……」


カイルは愕然として、玉座に座る父王を見つめた。


国王ヴィクトル・ルミナス。かつては威厳に満ちた眼差しで臣下を従えていた王が、今は深い隈に覆われた虚ろな目で宙を見つめている。


「陛下の不眠症も、再発したのです」


宰相セバスティアンが、重い声で報告した。


「一週間前から。……殿下の症状が悪化されたのと、ほぼ同時期です」


「まさか」


カイルの顔から、血の気が引いた。


「エリーゼが……父上の安眠も守っていたと?」


「そのようです」


◇◇◇


執務室に戻ったカイルの前に、七十一冊の革張りの帳面が積まれていた。


『安眠記録帳』——エリーゼが残していったもの。


「これを解読できる者は」


「おりません」


セバスティアンが首を振った。


「王立図書館の学者にも見せましたが、どの古代語とも一致しないと。フェザーダウン家独自の暗号ではないかと」


カイルは帳面を手に取り、ページを繰った。整然と並ぶ見慣れぬ文字。エリーゼの筆跡だけは分かる——毎晩、彼女が何かを書き記していたことは知っていた。


(何が書いてある。俺の悪夢の記録か? それとも——)


「殿下」


控えていたフィーネが、恐る恐る口を開いた。


「私、エリーゼ様が記録帳に何を書いていらしたか、存じております」


「何?」


「殿下の悪夢の傾向、効果的だった子守唄の種類、消費した魔力の量……全て記されているはずです」


カイルの手が、震えた。


「エリーゼ様は毎晩、殿下のために魔力を使い果たしていらっしゃいました」


フィーネの声が、涙で詰まる。


「私、見ていたのです。朝になると青い顔で、それでも笑顔で殿下をお見送りになって……」


「嘘だ」


「嘘ではございません! エリーゼ様がどれほど——」


「黙れ!」


カイルの怒声が響いた。


「あの女は、退屈な女だった。俺を眠らせることしか能がない、つまらない女だった」


「殿下……」


「ミレーヌを呼べ。彼女の子守唄なら、きっと——」


◇◇◇


その夜も、カイルは眠れなかった。


ミレーヌの子守唄は、むしろ頭痛を悪化させた。甘い声が脳に突き刺さるようで、吐き気すら催す。


「ミレーヌ、もういい……」


「殿下、私の歌では……」


ミレーヌの声に、微かな苛立ちが混じった。それを聞いたカイルの中で、何かが軋んだ。


(エリーゼは、こんな声を出さなかった)


いつも穏やかで、柔らかな声。俺がどんなに理不尽なことを言っても、笑顔で受け止めてくれた。


(あの女は——)


カイルは頭を抱えた。


エリーゼの顔を思い出そうとするのに、うまく思い出せない。淡い亜麻色の髪。眠そうな垂れ目。それ以外の——彼女の表情や、声の抑揚や、仕草が、霞のように遠くなっている。


三年間、毎晩傍にいたはずなのに。


「エリーゼを……」


カイルは、自分でも気づかないうちに呟いていた。


「エリーゼを、連れ戻せ」


◇◇◇


ヴァッヘン城の中庭で、春の花が咲き始めていた。


辺境に来て、二ヶ月。雪解けとともに、領地は活気を取り戻しつつある。


「エリーゼ様!」


村の子供たちが、私を見つけて駆け寄ってきた。


「今日も子守唄、歌ってくれる?」


「もちろんですわ」


私は微笑んで、子供たちの頭を撫でた。


『眠らずの地』と呼ばれた領地は、今や『安眠の地』へと変貌を遂げていた。不眠に悩む者は激減し、領民たちの顔には笑顔が戻っている。


「エリーゼ殿」


リーリアが、息を切らせて走ってきた。


「閣下がお呼びです。至急、大広間へ」


「何かあったのですか?」


「さあ。ただ、閣下は朝からそわそわしていらして……」


リーリアの目に、にやりとした光が宿った。


「何か、大事なお話があるそうですよ」


◇◇◇


大広間には、レオンハルト様が一人で待っていた。


正装の軍服に身を包み、銀灰色の髪をきちんと整えている。いつもの無造作な姿とは違う、凛々しい出で立ちだった。


「……来てくれたか」


「お呼びと伺いました。何かご用でしょうか」


私が問うと、レオンハルト様は深く息を吐いた。


「エリーゼ」


真剣な眼差しが、私を捉える。


「俺は、口下手だ。だから、率直に言う」


レオンハルト様が、片膝をついた。


「え——」


「俺の妻になってくれ」


時が止まったような錯覚を覚えた。


「レオンハルト様、それは……」


「君の力が欲しいのではない」


レオンハルト様の声は、真摯だった。


「いや、それも嘘になる。君の力は素晴らしい。だが、俺が欲しいのは——」


言葉に詰まり、レオンハルト様は自分の胸を押さえた。


「君自身だ。君の笑顔が、声が、優しさが。君がそばにいると、俺の胸は安らぐ」


「……」


「眠れなくても構わない。君がいてくれるなら」


私の目から、涙が溢れた。


三年間、ただの道具として扱われてきた。『添い寝係』『子守唄係』——それが、私に与えられた唯一の役割だった。


けれど、この人は違う。


私を、私として見てくれている。


「私で、よろしいのですか」


「君でなければ、意味がない」


レオンハルト様が立ち上がり、私の手を取った。


「返事を、聞かせてくれ」


私は涙を拭い、微笑んだ。


「喜んで」


◇◇◇


レオンハルト様が、不器用に私を抱きしめた。


「……苦しくないか」


「少し」


「すまん」


「でも、このままで」


彼の腕の中は、温かかった。


「俺は不器用で、気の利いたことも言えない。だが——」


「分かっております」


私は彼の胸に顔を埋めた。


「だから、信じられるのです。レオンハルト様の言葉は」


窓から差し込む春の陽が、私たちを包んでいた。


(ようやく、見つけた)


私の価値を分かってくれる人。私を、私として愛してくれる人。


(この場所で、この人と——)


「エリーゼ」


「はい」


「……幸せに、する」


不器用な言葉。けれど、それがこの人なのだと、私は知っている。


「はい、レオンハルト様」


◇◇◇


婚約を発表した翌週、王都から使者が訪れた。


「辺境伯閣下、並びにエリーゼ・フェザーダウン殿」


使者の男は、仰々しく巻物を広げた。


「第二王子カイル・ルミナス殿下より、帰還命令が下されました。エリーゼ・フェザーダウン殿は、直ちに王都へ——」


「断る」


レオンハルト様の声が、使者の言葉を遮った。


「閣下、これは王命です」


「王命ではなく、王子の命令だろう」


レオンハルト様は玉座から立ち上がり、使者を見下ろした。その威圧感に、使者の顔が青ざめる。


「エリーゼは我が婚約者だ。王子の元婚約者ではあるが、今は俺の妻になる女性だ」


「しかし——」


「それとも、王家は婚約破棄した女性を、都合よく呼び戻す権利があるとでも?」


使者は言葉に詰まった。


「……殿下は、眠れないのです」


声が震えていた。


「王もまた。このままでは、国政が——」


「それは、我が関知するところではない」


私は一歩前に出た。


「使者殿」


「は、はい」


「殿下にお伝えください」


私は、穏やかに微笑んだ。


「私は三年間、毎晩命を削って殿下の安眠をお守りしました。その全てを『退屈』と仰った殿下に、私が戻る理由はございません」


「エリーゼ殿……」


「それから、七十一冊の記録帳を解読したければ、フェザーダウン家の枕師にお尋ねになるとよろしいでしょう。もっとも——」


言葉を切り、私は続けた。


「私の父は勘当されておりますから、解読できる者がいるかは分かりませんが」


使者の顔が、絶望に染まった。


◇◇◇


使者が去った後、レオンハルト様が私の肩を抱いた。


「……大丈夫か」


「はい」


私は彼の胸に寄り添った。


「少しだけ、胸がすっきりしました」


「あの王子め。己の愚かさを、まだ分かっていないようだな」


「いずれ、分かる日が来るでしょう」


窓の外を見た。春の陽光が、領地を照らしている。


「でも、その時には——」


「もう遅い、だな」


レオンハルト様が、私の言葉を引き継いだ。


「君は、俺のものだ」


「……はい」


頬が熱くなる。けれど、嬉しかった。


(この人の傍にいたい)


そう思えることが、何よりも幸せだった。


◇◇◇


その夜、私は最後の一冊の記録帳を開いた。


母が残したこの帳面。今まで読み解けなかったページが、なぜか今夜は読める気がした。


『愛しい娘へ——』


母の筆跡が、そこにあった。


『この記録帳を読めるようになった時、あなたは真の愛を見つけているはずです』


心臓が、跳ねた。


『眠り姫の力は、愛する者の腕の中でのみ覚醒します。あなたの力が真に目覚める時——それは、あなたが心から愛され、愛する時です』


涙が、頬を伝った。


(母上……)


『王家の呪いの真実を、ここに記します——』


ページを繰ろうとした時、扉がノックされた。


「エリーゼ、まだ起きているか」


レオンハルト様の声だった。


「今夜は、俺の部屋で眠ってくれないか」


私は記録帳を閉じ、微笑んだ。


「はい、今参ります」


真実は、また明日。


今夜は——愛する人の傍で、眠りたい。


◇◇◇


王都では、破滅が加速していた。


「ミレーヌ・シャルール。その方の正体が判明した」


宰相セバスティアンの声が、謁見の間に響いた。


玉座に座る国王ヴィクトルと、その傍らに立つカイル。二人とも、目の下に深い隈を刻み、まるで亡霊のような姿だった。


「正体、だと……」


カイルの声が、掠れる。


「隣国ノクターン王国のスパイです」


セバスティアンは、一枚の書状を広げた。


「ノクターン王国は『悪夢』を操る一族が支配しています。彼らの目的は、ルミナス王国の『眠り』の守護を崩壊させること」


「まさか……」


「ミレーヌは最初から、王家を不眠で崩壊させるために送り込まれた工作員でした」


カイルの顔から、血の気が引いた。


「では、エリーゼを追い出すよう唆したのも——」


「全て計画の内だったと思われます」


◇◇◇


地下牢に繋がれたミレーヌは、最後まで冷笑を崩さなかった。


「愚かな王子様」


鉄格子の向こうで、彼女は妖艶に微笑んだ。


「あなたは自ら、最大の守護者を捨てたのよ。私は、ほんの少し背中を押しただけ」


「黙れ!」


カイルの怒声が響く。しかし、ミレーヌの笑みは消えなかった。


「『退屈な女』——あなた自身が、そう言ったのでしょう?」


「……」


「エリーゼ・フェザーダウン。あの女が何者か、あなたは何も知らなかった」


ミレーヌの目に、嘲りの光が宿る。


「『眠り姫の末裔』——国一つの眠りを支配できる力を持つ者。それが、あなたが捨てた女の正体よ」


◇◇◇


「眠り姫の、末裔だと……?」


王の私室で、セバスティアンは古い文献を広げていた。


「古代ルミナス王国の伝説です。『眠り姫』と呼ばれる聖女が、国を悪夢から守護していたと」


「それが、エリーゼと何の関係がある」


「フェザーダウン家は、眠り姫の血を引く一族です。代々、王家の安眠を守護してきたのは——彼らが眠り姫の末裔だからです」


カイルは崩れ落ちた。


三年間、傍にいた女性。退屈だと思っていた。つまらないと思っていた。


それが——国一つの眠りを支配できる力を持つ者だったなど。


「エリーゼを……」


カイルは、壊れたように呟いた。


「エリーゼを、連れ戻さなければ……」


「無理です」


セバスティアンの声は、冷たかった。


「彼女は辺境伯の婚約者です。そして——」


宰相は、窓の外を見た。


「王子殿下。あの時、私が止めていれば、と何度も思いました」


「……」


「ですが、止められなかった。殿下が、あの方の価値を理解されなかったからです」


カイルは答えられなかった。


「因果応報、というのでしょうか」


セバスティアンの声が、謁見の間に虚しく響いた。


◇◇◇


ヴァッヘン城に、一台の馬車が到着した。


「……殿下が、自ら?」


リーリアの声に、驚きが滲んでいた。


「閣下、いかがなさいますか」


レオンハルト様は、私の手を取った。


「エリーゼ、会うか」


「……はい」


逃げるつもりはなかった。むしろ、最後に伝えたいことがある。


◇◇◇


大広間に現れたカイル殿下の姿に、私は息を呑んだ。


(あの美しかった王子が——)


金髪は艶を失い、碧眼は血走っている。頬はこけ、かつての覇気は跡形もない。不眠が、彼から全てを奪っていた。


「エリーゼ」


掠れた声が、私の名を呼んだ。


「戻ってきてくれ」


「……」


「君なしでは、眠れないのだ」


カイル殿下は、私の前に膝をついた。かつて私を見下ろし、『退屈な女』と罵った人が、今は地に伏している。


「頼む、エリーゼ。俺が悪かった。君の価値を、分かっていなかった」


「殿下」


私は静かに口を開いた。


「三年間、毎晩お傍に控えておりました」


「ああ……」


「その間、一度でも私に感謝の言葉をくださったことがありましたか」


「……」


「一度でも、私の体調を気遣ってくださったことがありましたか」


沈黙が落ちた。


「殿下。それは愛ではなく、依存です」


私は微笑んだ。悲しみでも、怒りでもない。ただ、静かな諦めを込めて。


「私を必要としているのではありません。私の力を必要としているだけです」


「違う、俺は——」


「三年間、私は道具でした」


言葉を遮り、私は続けた。


「『添い寝係』『子守唄係』——それが、殿下が私に与えてくださった役割の全てです」


「エリーゼ……」


「私は、私の価値を分かってくださる方の隣で眠りたいのです」


私は振り返った。そこには、レオンハルト様が立っていた。


「この方は、私を道具として見ません。私を、私として愛してくださいます」


「待ってくれ、エリーゼ——」


「殿下」


レオンハルト様が、カイル殿下の前に立ちはだかった。


「この女性は、我が領の宝だ」


低く、しかし断固とした声。


「王家といえど、渡さぬ」


◇◇◇


カイル殿下は、膝をついたまま動けなかった。


「俺は……」


その目から、涙が零れた。


「俺は、何を……」


ようやく気づいたのだろう。自分が何を失ったのか。自分がどれほど愚かだったのか。


しかし——。


「もう遅いのですわ、殿下」


私は、最後にそう告げた。


「どうか、お元気で」


◇◇◇


馬車が去っていくのを、私は窓から見送った。


「……後悔はないか」


レオンハルト様が、私の肩を抱いた。


「ありません」


私は彼の胸に顔を埋めた。


「私は今、幸せですから」


彼の腕の中で、私は静かに涙を流した。


三年間の献身への、決別の涙だった。


◇◇◇


その夜、私は母の記録帳の続きを読んだ。


『王家の呪いの真実を、ここに記します——』


文字が、私の目に飛び込んでくる。


『王家の不眠は、呪いではありません。古代、眠り姫と王家は契約を結びました。眠り姫の一族が王家を守護する限り、王家は安眠を得る。その絆が断たれれば——眠りは失われます』


私は息を呑んだ。


(つまり、殿下の不眠は——)


私を追放したことで、契約が破られたのだ。


『そして、最後に。愛しい娘へ——』


母の筆跡が、震えていた。


『私は王家のために、全ての魔力を使い果たしました。それが枕師の宿命だと思っていました。けれど、それは間違いでした』


涙が、ページに落ちた。


『本当の眠り姫の力は、一方的な献身では目覚めません。愛する者の腕の中で、愛し愛される時——初めて、真の力は覚醒します』


『どうか、あなたは幸せになってください。あなたを愛してくれる人と、共に』


◇◇◇


「エリーゼ」


レオンハルト様の声が、背後から聞こえた。


「……泣いているのか」


「母の、遺言でした」


私は記録帳を閉じ、彼に向き直った。


「レオンハルト様」


「何だ」


「私を、愛していますか」


彼は目を見開いた。そして——照れくさそうに、視線を逸らした。


「……愚問だ」


「言葉で、聞きたいのです」


「……愛している」


小さな、けれど確かな声だった。


「君を、愛している」


私の胸が、熱くなった。


「私も、あなたを愛しています」


その瞬間——。


私の体から、光が溢れ出した。


◇◇◇


「な——」


レオンハルト様が驚きの声を上げる。


私の体を包む、淡い金色の光。それは城全体に広がり、領地全土へと流れ出していく。


(これが、眠り姫の力——)


力が、覚醒していた。


愛する者の腕の中で、愛し愛される時——母の言葉が、真実だったと分かる。


「エリーゼ……」


レオンハルト様が、私を抱きしめた。


「怖くはないか」


「いいえ」


私は微笑んだ。


「あなたの傍にいれば、何も怖くありません」


光が収まった時、私は知った。


この領地の全ての人が、今夜は安らかに眠れることを。


そして——王都では、誰一人として眠れないことを。


「国一つの眠りを支配できる力」


ミレーヌの言葉が、皮肉にも真実だったのだ。


ただし、私がその力を使うのは——愛する人々のためだけ。


「レオンハルト様」


「ああ」


「今夜も、一緒に眠ってくださいますか」


「……愚問だ」


不器用な彼の答えに、私は笑った。


「では、参りましょう」


私たちは手を取り合い、寝室へと向かった。


窓の外では、春の星が輝いていた。


◇◇◇


辺境伯城の寝室に、穏やかな朝陽が差し込んでいた。


——あれから、一年が経った。


「んん……」


私は、温かな腕の中で目を覚ました。


「おはよう、エリーゼ」


低い声が、耳元で囁かれる。


「おはようございます、レオンハルト様」


振り返ると、銀灰色の髪の夫が、穏やかな微笑みを浮かべていた。


婚姻から一年。彼の顔からは、あの深い隈がすっかり消えている。


「今日も、良く眠れたか」


「はい。あなたの腕の中ですから」


「……そうか」


照れくさそうに視線を逸らす夫。一年経っても、この不器用さは変わらない。


(だから、愛しいのですわ)


◇◇◇


朝食の席に、リーリアが駆け込んできた。


「閣下、奥方様。王都から報告です」


「何だ」


「第二王子カイル・ルミナスが、廃嫡されました」


私の手が、止まった。


「不眠による判断力の低下で、国政に甚大な被害を与えたとのことです。国王陛下も、退位を表明されたと」


「……そうですか」


私は静かに、紅茶のカップを置いた。


因果応報——そう言うべきなのだろう。けれど、胸が痛まないと言えば嘘になる。


「エリーゼ」


レオンハルト様が、私の手を取った。


「お前が心を痛める必要はない。あれは、あの男自身が招いた結果だ」


「分かっています」


私は微笑んだ。


「ただ、少しだけ——もし私が、もっと早く声を上げていたら、と」


「上げたところで、聞く耳を持たなかっただろう」


レオンハルト様の言葉は、優しかった。


「あの男は、お前の価値を理解できなかった。それが全てだ」


◇◇◇


その日の午後、私は領地の村を訪れた。


「エリーゼ様!」


子供たちが、私を見つけて駆け寄ってくる。


「今日も、一緒に遊んでくれる?」


「もちろんですわ」


私は子供たちの手を取り、微笑んだ。


『安眠の地』となったこの領地。かつて不眠に苦しんでいた人々は、今は穏やかな日々を送っている。


これが、私の居場所。


これが、私の幸せ。


◇◇◇


王都の城の一室に、廃嫡された元第二王子カイルは閉じ込められていた。


窓から差し込む陽光も、彼を照らすことはない。不眠は悪化の一途を辿り、今では現実と悪夢の区別すらつかなくなっていた。


「エリーゼ……」


虚ろな目で、彼は呟く。


「戻ってきてくれ……君なしでは……」


答える者は、いない。


彼が捨てた女性は、今頃、遠い辺境で幸せに微笑んでいる。


彼を愛してくれた女性は、今は別の男の腕の中で安らかに眠っている。


全ては、彼自身が選んだ結末だった。


◇◇◇


辺境伯城——夜。


「エリーゼ」


レオンハルト様が、私を抱き寄せた。


「今夜も、一緒に眠ろう」


「はい」


私は彼の腕の中に身を委ねた。


「私は今、とても幸せです」


「俺もだ」


不器用な言葉。けれど、それが何よりも愛しい。


「あなたの腕の中でなら——」


私は目を閉じた。


「永遠に、眠れます」


窓の外では、春の星が輝いていた。


『眠らずの悪夢公』は、もういない。


今ここにいるのは、愛する妻の腕の中で安らかに眠る、一人の男だけ。


そして私は——。


「おやすみなさい、レオンハルト様」


「ああ、おやすみ」


愛する人の傍で、幸せな夢を見る。


それが、私の選んだ結末だった。


——完——

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