第9話 遠い記録
塔の外壁をつたって、ひと筋の音が降りていった。
広場の空気が、あたたかく脈打つ。
人々の耳には、朝鐘の軽やかな響きが、遠い余韻のように残っていた。
ツムギは仮心臓が納められた“心座”の前で膝をつき、両手を伸ばした。
「塔が、息を受けてる……?」
コハクがうなずき、導糸の残滓を見つめる。
その糸は逆巻くように動き、街路から塔の内部へ向けて光を放っていた。
「拍の向きが変わった。塔が安定して“聴く側”になってるんだ」
その言葉に、ツムギの胸が鳴った。
少年の掌の下で、仮心臓が確かな動きを見せている。
塔の音核が、みんなの拍を受け取っている。
『紐綴じ──記綴士』の、皆の声を受けた結び目、記紐を使わない、それは初めての反応だった。
下層では響衛たちが慌ただしく動き、各層の共鳴度を測っていた。
「中層、再接続完了! 導脈の流れ安定しています!」
報告の声が塔の中を駆け上がる。
ナドは長く息を吸い、ゆるやかに吐き出した。
「…生命とは、こういうことかもしれんな。与え、そして送り返されることで、はじめて自分の形を知る」
ツムギはその声に顔を上げた。
「師匠、じゃあこの流れを保てば、街も塔も……」
「共に長く呼吸できる」
ナドは微笑みながら答えた。
「ただし、この拍はまだ幼い。聴き誤れば、再び偏る」
その時、外から青年の声が響いた。
「ナド導士ーっ! 広場の“音柱”が動いてます!」
響衛のひとりが叫ぶ。
塔の前庭に建つ音柱──かつての街の拍を記録した石筒が、まるで眠りから覚めたように微振動していた。
塔の拍と、街の息が交わり、記録がまた新たに生まれようとしている。
コハクは眼を細めた。
「……過去の“記紐”──皆の声が、呼びかけてる。街の記憶そのものが、拍を返そうとしてる」
ツムギは胸に手を当て、そっと目を閉じた。
心臓の鼓動と、街の響きがゆっくりと重なっていく。
「ねえコハク、これが“街の息”なんだね」
「うん。塔が耳を持ち、街が声を得たんだ」
ナドは静かに階段を下りながら、かつての自分の言葉を思い出していた。
“拍は支配するためにあるんじゃない。聴き合うためにある”
あの頃はまだ誰も信じていなかった言葉が、いま目の前で形を取ろうとしている。
広場の音柱が光を放つと、街じゅうの導管が共鳴した。
それは夜明けよりも静かで、誰もが一度立ち止まるほどの、美しい調べだった。
塔はその音を聴き、仮心臓が応えるように嬉しげに鳴った。
息が、往き来している。
それは塔の鼓動でも、街の鼓動でもなく――ひとつの命の拍。
ツムギは目を開き、息を整えた。
「ねえ、師匠。塔って、街の耳でもあったんだね」
ナドは微笑み、頷いた。
「そうだ。だからこそ、この場所の役割を背負った儂らも、聴き続けねばならん。沈黙の中にこそ、次の本当の音が育つのだから」
塔の窓から吹き込む風が、仮心臓の表面をなでた。
その熱はやがて、街のあちこちへと広がっていった。
新しい“呼吸”が始まろうとしていた。




