第8話 塔の耳
朝の光が塔の縁をなぞると、石の壁が共鳴するように震えていた。
まるで自然の音が、塔の内部で何度も反射しているようだった。
建物が動いているわけではない。
今朝方の“重拍の輪”の余韻が、塔の響路を伝って、まだ息づいているのだ。
ナドは上層の窓際で、静かに手を置いた。
「…戻りきらんか」
視線の先では、仮心臓が低い音を鳴らしていた。
コハクの三重封緘によって延命処置をほどこし、命を繋いだはずの球が、不安定な脈を刻んでいる。
脈というより、残響。
リズムをどうにか保ちながらも、音が深部で擦れ合っている。
「師匠」
ツムギの声が階下から届いた。
「仮核の音、塔の外にも聞こえてます。…でも、すこし歪んでる」
「歪みで済めばよいがな」
ナドは掌を離し、壁をひと撫でして言った。
「延命は、どうしても命の輪郭がぼやけてくる。拍の“方向”が曖昧になる」
塔の下では、響衛たちが配置につき、導脈の調査を始めていた。
浅い層では新たな乱れは見つかっていない。
だが、中層の響路がわずかに滞っているという。
昨夜の導糸が、まだ完全には燃えきっていないのだ。
ツムギは広場を見下ろしながら、手に残る冷たさを感じていた。
延命の鼓動が止まれば、街はまた沈黙に戻る。
だが、それを無理に繋ぎ止めることも、もうできない。
「…この拍は、どこへ行くんだろう」
思わず漏れたその言葉に、背後からコハクが答えた。
「行く、じゃなくて、還る。
本来は塔に戻るけど……今は、街の方が呼んでる気がする」
ツムギは頷き、低く息を整えた。
「じゃあ、街が選んだなら、それでいいのかも。
塔が全部を持っている必要はない」
その時、塔の上層で一瞬だけ、空気が煌めいたように鳴った。
──!
内部の響路が、塔と街の拍を再び結ぼうとして、新たにつながったのだ。
仮心臓の音と、街の呼吸が重なり、どこか落ち着いた音の霧が、周囲を包んでいく。
ナドはそれらを聴きながら、ひとり言のように呟いた。
「…息はただ渡すものではなく、聴き合うもの。
あの二人がそれに気づいたなら、もう大きな過ちの道へは進むまい」
ツムギは塔の中央で、手を心座の上に置いた。
鼓動はもう弱い。
けれど、その一拍ごとに、人々の笑い声や囁きがかすかに混じっている。
街の声が、塔を通して返ってきているのだ。
「──これが最後の音だとしても、きっと聴こえる」
ツムギの言葉に、コハクが微笑んだ。
「うん。でも、まだ終わってない」
その瞬間、塔の下層で響衛の叫びが上がった。
「導脈の深層に異変! 響路の“流れ”が逆転している!」
ツムギは顔を上げた。
ナドの声が、採光窓から風を切って降りてくる。
「塔を封じるな、その流れを聴き取れ! 逆流は、街の“拒絶”ではなく“応答”だ!」
仮心臓の表面に光が走る。
それは崩壊の光ではなく、受け継ぎの合図。
塔と街、離れていた二つの拍が、ひとつの呼吸を試みる。
音が重なり、空気がわずかに震える。
誰の息とも言えない一つのリズムが、塔の中で脈を打った。
その瞬間、ナドの目が静かに細まる。
「…長い時間の中で、必ず人から生まれてゆく異思…それを完全な理屈で遠ざけることなく、受け入れ続けていくことが、本当の“拍”かもしれん」
塔は再び沈黙した。
だがその沈黙は、終わりではなかった。
新しい音が生まれる直前の、長い息継ぎだった。




