第7話 本当の輪
夜が終わっていく。
塔の影が短くなり、いくらか不安を感じていた人々を、笑顔にするように光が動いた。
まだ冷たい霧の奥から、響兵たちが動き始めている。
彼らの耳には、「音」が戻りきっていなかった。
昨夜、響徒が使った銀糸が拍を乱し、街じゅうの警鐘が沈黙していたのだ。
──“音が鳴らない限り、守る者も動けない”。
塔の防音隊は夜明けまで、その沈黙の風景に閉じ込められていた。
仮心臓は、なお動きを刻んでいる。
けれどその鼓動の奥に、違う響きが混じるのをツムギは感じていた。
街のどこかで、昨夜の導糸がまだ生きているのだ。
拍は正しく戻りつつあるが、それは“完全な秩序”ではない。
害意のある心が、平穏なリズムに干渉し続けている。
塔の上層で、ナドが命じた。
「塔守──《響衛》を全域へ散らせ。拍の断点を探れ。響徒の残りが、地の導脈に触れとる」
指揮の声はいつもより低く、老いた呼吸の裏に、警戒の色が混じっていた。
ツムギは石段を降りながら、夜明けの風を吸った。
空気の層が変わりつつある。
——街の息が、“誰のものでもない”ように思えた。
その無所属の命で、彼は自分がどこに立っているのかを、確かめたくなった。
「…ツムギ、顔が暗い」
後ろからコハクが声をかけてくる。測定環を畳み、肩に下げている。
白い息が、まだ冷たい。
「色んなものが戻りつつある。でも、どこか感じが違う」
「…ふん?」
「塔が息を吹き返したんじゃなくて…街の方が“塔を吸ってる”みたいなんだ」
コハクは小さく目を細めた。
「…それはつまり、街そのものが管理されることなく、呼吸を選ぼうとしてるってこと?」
「分からない。でも、僕らが無理に合わせようとしても、拒まれる気がする」
二人は塔を出て、大通りを歩いた。
石畳のあちこちには焼けた導糸の残骸が散り、衛兵たちが金槌で砕いていた。
彼らの槌が石に触れるたび、かすかに“鈍い音”が返る。
それは、この地を安定させるための手仕事の音であり、ツムギはその一つ一つを数えながら、ふと思う。
——この音さえ、きちんと誰かの息で支えられている…それは“不自由”なんかじゃなく──
広場に出ると、朝の霧の中に人影があった。
ヴェンだ。
響徒の数人とともに、塔の方を向いて立っている。銀糸は指に巻かれ、導脈への接続はすでに切られていた。
だがその目は、まだ眠っていなかった。
夜を越えてなお、拍を見届けようとする意志の光を湛えていた。
「…来たか。塔の子」
ヴェンの声は、前夜より落ち着いている。
「街は変わらず、戻ったようだな。塔がまた、クラン市民全員に“息を配る”のか」
「──戻ったんじゃない。まだ探してる。拍はひとつじゃないって、あなたたちが教えてくれた」
ツムギの言葉に、ヴェンは目を細める。
「その“探す”ってやつが、拍を腐らせるんだ。…塔は選ばれた者の息だけを残す。
俺たちは、その中で生きる一人の呼吸を、ただ守りたいだけだ」
「でも、あなたたちは命を削って響きを作ってる。それじゃ、長くは続かない。それは“自由”じゃないよ」
ヴェンは黙っていた。
その背後で、響徒のひとりが静かにうなずく。
顔は若く、指先は白く痩せている青年。…たしか、身体に不具合があるような咳をしていた。
コハクが一歩、前に出て言う。
「もし、塔とあなたたちの呼吸が混ざれば、どちらの息も壊れる。そこに込められた思いが、相反するものだから。…あなたたちの自由も、塔の秩序も終わる…それでも止めないの?」
「止めない」
ヴェンは即答した。
「拍は秩序じゃない。生きてるものが生む“揺らぎ”だ。俺たちは、その揺らぎのために息をしている」
ツムギは、仮心臓の熱を思い出した。
そこにあった、仄かだけど信じられる温もり。
「…揺らぎも、響きも、終わらせるためじゃなく、つなぐためにあるんだ。あなたたちが命を削ってでも拍を返すなら、僕らは命を使って“聴く”」
その言葉に、ヴェンの眉がかすかに動いた。
静寂の中、塔の上層から鐘が鳴る。
夜明けの合図。
響兵たちの足音が近づき、広場を囲んでいった。
銀槍を持った塔守が、拍の漏れを抑えるように配置についた。
「囲むな、ナド」
ヴェンが低く言った。
姿を現した老導師は、ただ頷いた。
「囲いではない。拍を聴く“輪”だ。
ここから先は、誰の息も奪わぬようにする」
ツムギは足元を見つめ、両の手を地に触れた。
冷たい石の奥から、二つの拍が微かに混じる。
一方は、塔の拍。もう一方は、響徒の思いが強く残っている《街》の拍。
昨夜の戦いで一度ぶつかり、いま再び重なろうとしている。
「——一人一つ。息を置いて、いきます」
ツムギの声が、朝の空気に溶けた。
響衛が呼吸を合わせ、響徒がそれを見つめる。
風が渡り、拍が重なる。
塔の窓が光に脈打ったように見え、仮心臓の奥で、光が踊った。
争いではない。
街が自らの息を確かめるための“重拍の輪”が、そこに生まれていた。
ナドが静かに言う。
「…自由を“無法”と勘違いするな。これが、拍を“聴く”ということだ」
その声を最後に、朝の光が塔を包み込んだ。




