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鳴らない鈴  作者: 久賀 広一
3章 遠き思い、近き人
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第25話 残光


 闇がほどけた先は、白い部屋ではなかった。

 最初に戻ってきたのは、紙の匂いではなく、乾いた石の匂いだった。

 湿った底の空気が身体からがれ、かわりに、どこか遠い地上の冷たさが肌へ戻ってくる。


 ツムギは不意に膝を折りかけて、踏みとどまった。

 落ちる時とは逆だ。自由になると、意識は軽くなるのに、身体は重さ(現実)を思い出す。

 自分の足で立つという、ごく当たり前のことが、ひどく大切な動作に感じられた。


 隣で、コハクが青年の袖をはなす。

 布越しの支えは、そこで終わった。

 青年は一度ふらつき、壁に手をつきかけ――寸前で止めた。何かに触れる、ということへの恐怖がクセづいていて、苦笑が漏れる。

「……ここは」

 声は出た。

 底ほど自由ではないが、白い部屋ほど薄くもない。


 そこは、通路だった。

 これまでの独特な雰囲気があった部屋とは違う、ごく普通の、石の壁に囲まれた狭い回廊。

 完全な外ではない。壁の中ほどには、白い部屋で見たものに似た、方眼の薄い跡が残っている。


 ……現場外。一次。

 監視窓が告げた言葉を、ツムギは思い出した。

 ここは、外ではなく、何らかの段階にある者の置き場、通り場だ。

 今すぐには、未完を解決させるのが難しい案件を置いておく場所。


 コハクが、あたりを見回して小さく息をついた。

「……なるほどね。保管箱って、こういう感じか」

「……何も先が見えない、ボンヤリとした感じ。それでも、底よりはましだ」

 少女のつぶやきに、青年が前を向いて答えた。

 ツムギは、先ほどからその青年の足元をずっと見ている。

 黒線は、まだある。

 ただし底にいた時のように、身体を押し戻したりするような線ではない。細く、薄く、足首の周りに残っている。縄というより、荷札だ。


 もちろん、青年もそれに気づいていた。

「……俺は、まだ国民なんだな──」

 その言葉に、ツムギはすぐ答えられなかった。

 それが救いなのか、つらいものが待っている縛りなのか、今はまだ分からない。

 そういうハッキリしない状態がいちばん苦手なのは、コハクだった。

「少なくとも、“無かったこと”にはされてないね」

 青年の目が少し揺れた。

 生きているものが、まだ痛みを受け取れる時の揺れ。それは、終わった者たちからすれば、ありがたいことなのかもしれない。


 通路の奥で、方眼の跡が淡く光った。

 監視窓ほどはっきりしたものではない。

 だが、壁そのものが必要な文だけを浮かべる。


 ――照会者:回送中

 ――未完案件:継続

 ――外部者:同行記録あり

 コハクが、肩をすくめるような動きをした。

「同行、ね。ほんと最後まで細かい」

「向こうは、細かくしておけば責任を散らせると思ってる」

 ツムギが言うと、青年が顔を上げた。

「でも……それももう、通用しないんじゃないかな」

 その声には、かすかな熱が戻っていた。

 底で折れかけ、沈められかけ、それでも残った熱だ。

「会計官が言った。赤は署名だって。白い欠けが先に出て、監査名義を借りて事故にしたって。……あれは、もう名じゃない。やり方だ」

 ツムギは頷く。

「うん。だから、個人じゃなく国としての事情を、外へ運べる」

 コハクが胸の内側を押さえた。

 一瞬だけ、薄膜の折り目が見えた。

 言葉にはしない。提出に使うわけでもない。

 ただ、まだある、と三人に分かるだけでよかった。

 青年の目は、その一瞬をとらえてほほ笑んでいる。そして、何かに踏ん切りをつけたように告げた。

「俺の国の言葉は、ちゃんと残ってる」

「……」


 その時、背後の闇がわずかに震えた。

 底へ続く通路の方から、遠く、紙束が擦れる音がする。

 碑守が残った場所だ。

 ツムギは、ふり返りかけた。

 だが、そこに見えるのは闇だけなのだ。

 もう声は届かない。

 ただ、何かがまだ底で踏みとどまっている感覚だけがある。

 青年が、静かに尋ねる。

「……あの人は、残って良かったのかな」

「分からない」

 ツムギは答えた。

「国のいちばん高い場所と、いちばん底で起きたことを、好きに畳ませないために……きっと、そうするしかなかったんだ」


 青年は、しばらく黙っていたが、やがて深く頭を下げた。

 碑守がいない場所、もう記録にされない場所で。

「……ありがとう」

 その言葉が届くことは、おそらくこの先、ずっとない。

 ほとんど誰に知られることもなく、しかしいつしか、誰かへと語られていく、確かに必要だった“底の番人”。


 通路の先で、石の壁が重く鳴った。

 ゴ、と震える音がして、奥に細い明かりが差す。

 陽光ではない。

 閉ざされた部屋でもない。

 地下から地上へ近づく途中の、灰色のような明るさだった。

 コハクが小さく眉を上げる。

「出口?」

「…まだ手前だけど」

 ツムギはそう答えた。

 この国の運用が、いきなり手放しで外へ出してくれるはずがない。

 ただ、完全に閉じ込めることも、もうできなくなっただけだ。


 明かりの方へ進むと、壁の方眼が少しずつ薄くなっていった。

 代わりに、石の傷や、古い水の跡が見えてくる。

 人が手触りで作った場所の気配が戻ってくる。

 それだけで、息がしやすくなった。

 青年は途中で一度だけ足を止めた。

「……恐いな」

 ツムギも、コハクもふり返る。

 彼は苦笑した。

「底にいた時より、今の方が恐いかもしれない。まだ終わってないのに、希望のようなものを見せられて」

 ツムギはその言葉を受け止めた。

 分かる気がした。

 絶望の底にいる時は、ただ耐えればいい。諦めればいい。

 けれど、少しでも道が見えた瞬間から、人は選ばなくてはいけなくなる。

 生きる方へ。

 戻る方へ。

 そして、自分だけで生まれた命ではない、何かを背負う方へ。

 コハクが、青年の袖を軽く引いた。

「恐いので、合ってるよ」

「え?」

「それを忘れた人が、国のことを勝手に決めるから、こうなったんでしょ」

 青年は、何も言えなくなった。

 それから、少しだけ笑った。今度の笑いは、失敗しなかった。

「……君たちは、厳しいな」

「うん。もう分かってると思うけど、優しいだけだと、正しく──いや、後悔のないように、生きていけないから」

 ツムギは、少しだけ口元をゆるめた。

 緊張がほどけるには早い。

 それでも、その短いやり取りが、通路にほんの少し人の温度を広げた。


 明かりの先に、道が折れる、小さな踊り場のような場所があった。

 その中央に、古い石の台がある。

 台の上には、紙が一枚だけ置かれていた。

(灰色に近い──くたびれた紙、かな?)

 端が擦り切れ、何度も折られた跡もある。

 青年が近づく。

 今度は、止められなかった。

 黒線も動かない。

 紙には、短く書かれていた。


 ――未完案件の一時返送。現場上層へ。

 ――退国宣言手順、保留。


 その下に、もう一行。

 今までの窓の文章とは、少し違う字があった。

 整いすぎていない。

 誰かが急いで、けれど自分の手で書いたような字。


 『第二庫へ』


 青年の顔が変わった。

「……第二庫」

 ツムギも、会計官の言葉を思い出す。

 鍵が二つあった場所。

 片方が“最初から無かった”ことにされた場所だ。

 白い欠けが出た、はじまりの場所。

 コハクが紙を覗き込み、低く言う。

「これ、運用の文じゃないね」

「うん」

 ツムギも同じことを感じていた。

 運用の文章は、もっと説明的で、もっと逃げ場がない。

 この一行には、迷いがある。

 迷ったうえで、それでも残した人の手が感じられた。

 青年が、かすかに震える声で言う。

「……会計官か」

 誰も断定しなかった。

 けれど、そう思いたかった。

 底で押し戻されながら、工程を語った男。

 その男が、必死に示した場所。

 第二庫。


 ツムギは紙を手に取ろうとして、やめた。

 ここで触れていい紙かどうかは、まだ分からない。

 代わりに、コハクを見る。

 コハクは少しだけ考え、胸元の内側に手を入れて、迷った。

 薄膜は出さない。

「たぶん、覚えるだけでいいと思うよ」

 ツムギはうなずいた。

 青年も、紙をじっと見つめている。

 『第二庫へ』

 短い一行が、三人の中に刻まれた。

 踊り場の先で、今度こそ外の空気が動いた。


 その先で、石の扉が、ゆっくり開いている所だった。

 明るさが、ぐっと強くなった。

 眩しいほどではないけれど、底を抜けたあとには充分すぎる光で、みなの足が鈍くなる。

(──!)

 扉の向こうには、記念碑の裏側が見え、暗がりがりついた石壁と、螺旋に並ぶ小さな石片に、どこかホッとしたような気持ちになった。


 そして――少し離れた場所に、紙束を抱えた子どもが立っていた。

 驚きで、三人の目が見開かれる。

「まだいたの──!?大丈夫?」

 声を失い、書けない紙を抱えていた子ども。

 逃げろと言っても、隠れて待つことを選んでいたようだ。ずっと、記念碑の陰で、この国が落としたものを拾うように立っていた。


 子どもは、三人を見る。

 まず青年を見て、目を見開いた。

 次にツムギとコハクを見る。

 それから、抱えていた紙束の中から一枚を抜いた。


 差し出す、というより、置く。

 何かを教えるためではない。

 ずっと抱えたままだったものを、ようやく置ける相手が来たから、そこに置いたような動きだった。

 紙は、ゆっくり地面に敷かれた。

 そこには、たどたどしい線で、四角い建物が描かれていた。


 入口が二つ。

 片方には、小さな鍵の印。

 もう片方には、欠けた白い四角。

 地図としては粗すぎる。

 案内としては足りない。

 けれど、ただの落書きではなかった。

 ツムギは息を止めた。

 子どもが、第二庫を知っていたのではない。きっと、この子はずっと見ていたのだ。

 記念碑の裏に捨てられた紙を。消された案内を。誰にも読まれなかった、その形を。


 それらを、意味も分からないまま、声の代わりに写していた。

「……第二庫」

 コハクが、低く言った。

 その言葉を聞いた瞬間、子どもの指がわずかに震えた。

 自分の紙に、初めて名前が戻ったと、理解できたからだ。


(……) 

 子どもは、何も言わない。

 言えない。

 ただ、紙束を抱え直し、今度は青年に向かって深く頭を下げた。

 青年の顔が歪む。

 感情がこぼれそうになったが、自分がそれで済ませてはいけないと、分かっている。こんな小さな子ですら、何も分からないままに必死だったのだ。


「……ありがとね」

 しぼり出した声は小さかった。

 けれど、やっと外の空気の中へ、届けたい相手に出た言葉だ。

 子どもは、ほんの少しだけ頷いた。

 それから記念碑の影の奥へ下がる。

 去るのではない。

 この国の中に、まだ残るのだ。


 ツムギは、空を見上げた。

 空は、石道の中の光のように、灰色だった。

 晴れてはいない。けれど、底の黒ではない。


 コハクがそばに立つ。

「どうする?」

 答えは、もう決まっていた。

 けれど、ツムギはすぐに言わなかった。

 青年を見る。

 彼はまだ、足元に薄い黒線をまとっている。

 未完の印。

 だが、その目は、底で見た時よりずっと強く、もうとっくに決めていたことを告げた。

「第二庫へ行く。……俺の国が、何を消したのか、見届ける」


 ツムギはうなずいた。

「うん。行こう」

 コハクが、少しだけ頬をゆるませる。

 次に進むための、少しの力の抜きだ。

「じゃあ……今度こそ転ばないでね」

 青年は、苦く笑い返した。

「努力する」

 記念碑の裏で、風がようやく動いた。

 石壁や、小さな石片の間を抜け、三人の足元を撫でていく。

 その風は、まだ冷たい。

 けれど、もう誰かの声を奪うだけのものではなかった。

 ツムギは一歩を踏み出し、コハクがそこに並ぶ。

 青年も続いた。


 ──底に残った、碑守。

 言葉を残した会計官。

 沈んだ老人。

 紙を滑らせた、子ども。

 ……そして、まだ名を取り戻していない国。

 全部を抱えて進むには、三人は未熟すぎる。

 それでも、進む理由はあった。

 作られた名目ではなく。

 誰かを名指しし、悪者にして終わるためでもない。

 “どうやって”この国が閉じたのか。それを世界に知らせるために。


 灰色の空の下、三人は記念碑の裏を離れた。

 向かう先は、白が欠け、赤がともり、鍵が最初から無かったことにされた場所。

 この国の終わり方ではなく、まだ残っている可能性、始まり方を、確かめるために。









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