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鳴らない鈴  作者: 久賀 広一
3章 遠き思い、近き人
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第23話 使役されてきた正しさ


 きぃ――。

 分岐の音は、金属の鳴きではなかった。

 この場の底が、こちらの呼吸より先に結論を出す音だ。


 暗がりの奥で、比較資料の列が動き出す。

 ゆっくりなのに止められないような、未知の事実の質量。レールの上を滑る車輪の乾いた音に、紙の匂いが絡みつく。

 列の先頭が灯りのふちに差しかかった瞬間、ツムギはただ思った。


 ――これは“横車”でしかない。

 人を折るための──立場ある者が、そうでない者の「道」に非道を通す、取り返しのつかない過ちの拡大。


 台車の上、会計官の男が小さく身じろぎした。

 黒線がそれをやわらかく押し戻す。暴力に見えない横暴。当人の意志が弱いように、間違っているように見せる、丁寧な手口。

 老人は笑っている。勝ち誇りの笑いだ。

 監視窓の文字が追いつくより先に、老人の声が空間に置かれた。

「見るだけで終わる。――名はいらない」

 青年の肩が跳ねた。

 いらない、は嘘だ。それを言わせなくても、“名を言ったことにできる場”を作るという意味だ。


 青年は台車の縁で唇を噛む。声が出る場所なのに、声を出せば危うくなる場所。

 コハクが、低く言った。

「ツムギ。列、分けられてる」

 少年もそれを見た。

 比較資料の列は一本のレールに見えたのに、灯りからすこし離れた場所で二股に割れていた。

 左へ行けば“観覧”。右へ行けば――白い作業台。記載される台。


 碑守が、唇の端を吊り上げる。

「……見せるだけじゃない。書く気だな。見せた直後に、そのまま固定する」

 老人は、穏やかな口調で頷いた。

「そうだ。証言は揺れる。だが“見えるもの”は揺れない。そのまま即座につなげれば、揺らがないものが勝つ」

 ツムギは、息を一つだけ吸って、吐いた。

 吐きながら、足元の黒線のくせを読む。


 いま、列は止められない。次の工程が明示されているこの段階では、止めれば“違反の介入”に落とされるかもしれない。……けれど、流れに乗って見せられたら、最後に残るのは“納得”という名の折れだ。


 ――なら、列の意味だけを壊す。

(順番を……見せ方を)

 ツムギが一歩、分岐へ寄ろうとした瞬間、黒線が足首を撫でた。

「近づけ」と言っている。近づいた瞬間に「触れた」へ落とすために。

 だからツムギは、寄らなかった。

 代わりに、視線を落として――床の端に転がるものを見つけ、拾った。


 紙の床に混じっていた、小さな欠片。

 石片でも、古紙の切れ端でもない。紙を束ねるための、古い留め具の破片――折れた金具だ。

 ここが国の底であることを思い出させるみたいに、時を経たさびと、油の匂いが残っている。

 ツムギはそれを、指先で弾いて確かめた。

 軽い。けれど、硬い。

(……コハク)

 ツムギは声を出さずに、目だけで合図した。

 老人の注意を引かないよう、少年の動きを見ずに、気配だけで動作を感じていたコハクは、その意図を一瞬で理解した。会計官の台車の影へ身体を寄せて、ツムギへとどく老人の視線をさえぎる位置を取る。

 “何かをした”と読ませないための、ただの風景。だが、そういう時の彼女はとても無口で、動作も賢明になる。


 ツムギは、分岐の根元を見た。

 二股――観覧へ向けて並ぶ列と、記載台へ向けて整列する列。

 その切替えの中核に、短い溝がある。レールのした――向きが変わる舌板の隙間。そこへ、留め具の破片を注意してほうった。

 勢いは要らない。狙いは正確さだけだ。

 カッ――。

 小さな音がして、欠片が舌板の隙間に噛んだ。

 見た目はただのゴミ。

 だがここは、記録を運ぶ場だ。運用は、事故を問題なく処理しても、事故そのものを“なかったこと”にはできない。

 ……案の定、列の先頭の車輪が、わずかに震えた。

 その震えを、介入の力である黒線が押さえ込もうとして――押さえ込めない。

 “押さえ込んだ”と残れば、その対処は運用の横入よこはいりとして、二重にあとに残るからだ。

 監視窓の文字が、遅れて立ち上がった。


 ――搬入経路、微小異物。

 ――記載台経路、保全優先。

 ――観覧経路、後送。

「……ッ」

 老人の笑いが、ほんの一瞬だけんだ。

 止んだという事実だけで、充分だった。

 通常の運用、通常の対処で、計算が崩れた。観覧へ送って、会計官の心を折る――その順番が、崩れた。


 老人は笑いをやめた。

 穏やかさが、すべてがれたわけではない。その“皮”はかろうじて残ったが、内側の狂気の決断が、取り返しのつかない方向へと、顔を固定化させていった。

「……なら、見せる必要はない」

 その一言で、作業場の空気が変わる。

 列が“説得”をやめる。

 

 次の台車に乗せられていた軍需の監査官は後送、説得を捨てた運用は、すぐ次の案に移る。

 黒線が、観覧側へ流れるのをやめ、白い作業台――記載の側へ集まった。

 比較資料の台車列が、ぐい、と向きを揃える。折れた金具の噛み込みなど始めからなかったような、崩れのない段階的対処。

 碑守が、歯を噛んだ。

「……固定する気だ。見せずに、書いて終わらせる」


 老人は青年を見た。

 会計官も、見た。

 どちらも“人”としてではない。材料としての見方だ。

「名は言わない、という考えだったな?」

 老人が、淡々と続ける。「なら、名は創られる。――『比較資料の供述』として、自然に帰結する名は、どうしても浮かび上がってくる」


 会計官の喉元へ、黒線が群がった。

 さっきまでの圧ではない。目的は“書くための線”だ。事実の周囲に転がっている、望んだ答えを集めて、紙へ繋ぐ圧。

 青年が、台車の縁で身をよじった。

「やめろ……! それは……本人の声じゃない!」

 老人は答えない。

 答える必要がない。ここでは答えが“書かれてしまえば”勝つ。


 コハクが、短く息を吸った。

 少年の方を見ない。ツムギも、コハクを見ない。

 互いに目を合わせる余裕がないとき、二人は不思議と噛み合う。


 ――ここからは、止めない。

 ――壊す、しかないよね。

 コハクが、会計官の台車の影から、すっと立った。

 武器を抜かない。薄膜も出さない。

 代わりに、台車の“白布”――罪状を書き込むための布へ、指先を向けた。

 その布だけは、やけに整っている。

 最後に入れられる一筆を、しん、と待っている。

 コハクは近寄り、布のはしをほんの少しだけ折った。

 まるで触れたように見えない、ごく自然な動作で――折り目だけを作る。


 次の瞬間、黒線がその折り目に吸い寄せられた。

 “書きやすい欄”を見つけたみたいに。

 老人の眉が、初めて動く。

「……何を」

 コハクは答えない。

 代わりに、ツムギが、ひとつだけ言った。

「――そこは、罪状欄じゃない」

 老人が目を細める。

 ツムギは続けない。“決められた道”しか知ろうとしない人間には、何も届きはしない。

 しかし“折り目”は残った。

 運用は、それを欄として扱うしかなくなる。欄を無視すれば、無視した記録が残るからだ。

 碑守が、吐き捨てる。

「……欄を増やした。勝手に欄を増やすと、運用は“記録”を避けられん」

 老人は、そこで最後の札を切った。

 穏やかさを捨て、ためらいも捨て――“この場そのもの”を終わらせにいく。


「……封緘。完全化」

 壁の紙束が、いっせいに鳴った。

 森がざわめくような音ではなく、二度と戻ることのない、ずしん、と沈む感覚だ。

 作業場の灯りが、ひとつ暗くなる。

 ここで起きたことが、外へ繋がらないように――つなぐ道を一つずつ潰していく。

 青年の顔から、血の気が引いた。

「……ここで終わる」

 会計官が、喉を押さえながら、笑った。苦い確信だ。

「……やっぱり……そう来る……」


 ツムギは、一瞬息を吸わなかった。

 吸えば、焦りの形が整う。

 代わりに、喉の奥で“線の張り”を感覚的に拾い――一本だけ、活路を見つけた。

 黒線は、封緘の完全化に向けて集まっている。

 集まっているということは、中心がある。

 中心があるということは、力のくさびが存在する。

 ツムギの視線が、老人の胸元――削られた徽章の跡へ刺さった。

 縫い直しの薄い布。そこが、中心だ。

 老人が、終わった勝ちの顔で言う。

「外の子。……もう遅いわ」


 ――遅いのは、あなたのほうだ。

 ツムギは、口にしない。

 代わりに、歩を進めた。

 喉が反応するままに、指を立て──この場のすべての楔につらなる場所を突く。


 バサ、と老人の衣服が揺れた。

 中心が揺れ、黒線がそこで一拍遅れる。──続いて、監視窓が初めて乱れた。

 淡々とした文字が、まるで咳みたいに吐き出される。


 ――封緘:未確定。

 ――権限の力:揺動。

 ――運用者:要再認証。

 老人の目が裂けた。

 恐怖だ。自分が“運用者”として固定されるのはまだ先のはずで、事後確認までに打てる策があった。


 表れた恐怖を、碑守が見逃さない。

 彼は一歩だけ前へ出た。

 踏み込むな、と言われ続けた男が、初めて踏み込んだ。

「……もう一度、同じ手は通らんぞ」

 碑守の声は低い。「お前たち枢機院は、すべてを掌握し過ぎてきた。前のめりに相手をつぶす手段しか知らず、柔軟な退きの対応がとれん。……どこまでも力に頼り、名が残るのはお前たちだ」


 老人が反射で、会計官へ黒線を集める。

 名を吐かせて、強引に終わらせるために。

 だが、その瞬間。

 コハクが、折った白布を、指先でちいさく弾いた。

 折り目が――ぴん、と戻る。

 欄が揺らぐ。

 黒線が迷う。

 迷いは一瞬。だが一瞬でいい。

 会計官が、その隙間に言葉を滑り込ませた。

「……合図は……上書きの許可……」

 言葉がふるえる。「……そして、許可は……誰かの手で押される……」

 老人が、息を吸った。

 吸った瞬間、ツムギは確信する。

 この男は、“許可”で国を塗り替える。

 あとに残る手は「すべての国民のため」の行為として砂塵に消える。


 青年が、台車の縁で呻いた。

「……やめろ。押すな……!」

 老人は、押す。

 押さなければ、自分が噛まれる。

 押せば、手が残る。

 ――それでも横車を押して、あらゆる手段を使って隠すのが、この国の“優秀さ”だ。


 老人の指が、胸元へ沈む。

 その瞬間、監視窓の隅に赤がともる前に。

 文字が、ひとつだけ先に立った。

 ――上書き許可:署名待機。

 ――署名者:運用者。


「──!」

 ツムギは、そこで初めて、意を通しきった声を出した。

 穏やかに、一つ一つを注意深く。

「押せば、あなたが残る」

 それは、自身の特別な“届ける”力──世界への影響力を持つ透声に、まともに乗せた言葉だった。

「……僕とコハクの力は、それほど大きくはない……。でも、あなた達が特別な能力でどれほどこの国をねじ曲げ、ねじ伏せて来たとしても、僕たちは力いっぱい、第三者としてその能力に介入した。外部の目や、力が加わることによって顕在化することは必ずある。この国の何も知らされなかった人たちのように、そこに誤魔化しは効かない」

 老人の目が、わずかに揺れる。

 揺れたまま、押した。

 赤がともる。

 だが、点った赤は“許可”だけではなかった。

 署名があった。

 窓が、冷たく断言する。


 ――上書き許可:発動。

 ――署名者:運用者(確定)。

 ――運用者枠:締結開始。

 老人の足元に、枠が生まれた。

 角ではない。輪郭ではない。

 輪だ。逃げ道のない輪。

 老人の口元が引きつった。

「……違う。これは――」

 違わない。

 ここは、言い訳が残る場所だ。残れば、追える。

 碑守が、息だけで笑った。

「……噛まれたな。自分たちだけが特別だと、信じ過ぎなんだ。才能は、世界のどこにでもある」


 黒線が、老人へ集まりはじめる。

 会計官から離れ、青年から離れ、外部者から離れ――運用者へ還る。

 老人は、最後にひとつだけ、視線で“比較資料”を動かそうとした。

 だが、できない。動かせば、ここに至って運用の追記が増えるだけだ。

 そして増えるほど、追記は老人を守る壁を薄くする。


 青年が、台車のふちで小さく息を吐いた。

 まだ生きている目で、老人を見る。

「……あなたは、国を守ったんじゃない」

 青年の声は枯れているのに、底では不思議なくらい届いた。

「自分の責任を、くらまそうとしただけだ」


 老人は笑おうとした。

 笑えなかった。

 枠が、足首に触れたからだ。

 あの“やわらかい押し戻し”が、今度は老人に来る。

 暴力に見えない暴力。

 丁寧な傲慢。

 自分が作ったもの。


 ――失敗は、いつから──。

 老人の顔が、孤独に沈んでいた。

 ツムギは、コハクを見る。

 コハクは、もう薄膜を握っている。

 ここで奪うべきは、老人の命運じゃない。

 運用の骨だ。


 少女は、ひと息で言った。

「行くよ。――次は、外」

 青年の目が、揺れた。

 自分はまだ、ここから出られない。

 罪と罰が正しい場所に届き、落ちるはずのなかった人間が浮かび上がるには、救われるには時間がかかる。

 青年の目が揺れたのは、信頼できる相手──自分のためだけに生きるのではない、託せる“人間”を確かに見つけたからだ。


 黒線が、老人を沈めはじめる。

 青年を沈めたのと同じように。

 だが、今度は違う。

 それは、人が実りある生を得るために実践していかなければならない“正しさ”を、己の上にではなく、下において利用してきた自滅だ。

 老人が、最後に言った。

 声は出るのに、言葉が整わない。

「……国は……」


 ツムギは、答えない。

 答える価値がない、という思いではなく、もうその答えは、外へ運ぶからだ。


 窓が、淡々と締めを告げる。

 ――責任運用者:移送手続き。

 ――未完案件:継続。

 ――照会者:救出未了。


 最後の瞬間、老人は青年を見た。

 そこにあるのは、憎しみ、悔やみ──いちばん大きな感情は、ただ、“まだ間に合う者”への羨望だ。


 ……沈んだ。

 作業場の空気が、ひとつ戻る。

 戻った空気は、決して優しくはない。

 だが、ようやく――本当の息ができる。


 碑守が、重い声で言った。

「……まだこの国は終われない。その間際にのたうち回る所業をしてきた輩は、他にもいるからな。だが……これで少しはマシな最期を迎えられるかもしれない」


 ツムギは、青年へ視線を向ける。

 触れない距離のまま、言う。

「行こう。――君を、必ず戻してみせる」

 比較資料の列も、まだ暗がりにいる。

 だがもう、それも被害者じゃない。

 形勢が変われば、結果も変わってくる。倒れるべき相手が、沈んだのだ。


 コハクが、青年に近寄ってその手をとる。

「思いのほか、きつい道行きになっちゃったね。まさか私まで、一度は自分を投げ出すとは思わなかった」

 ツムギは、うなずいた。

 青年の台車の縁で、黒線が弱く鳴る。

 まだ未了──

 ……そのとき、底の奥で、まるで風に吹かれたように紙が一枚、めくれた。


 それは、忘れられるべき過去のためではなく。

 未来に繋がっていく、続きの合図のようだった。 







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