第4話 手続きの根元
扉の影に踏み込んだ瞬間、外の光が、後ろで閉じられたように心細くなった。
実際には、尖塔から普通に出ることはできる。けれど、背中側の世界が、幕で覆われたみたいに、遠くなった。
(……こんな感じで、この国は皆に、忘れられていったのかも)
ツムギはそう思いながら、前に向き直った。
暗がりの奥では――
……パラ。
パラ。
変わらず、白い帳面がめくられている。
街と同じで、誰の気配もないのに、その指先だけが存在しているような規則正しさだった。
ツムギは喉を押さえた。
ここでは声が届かない。いや、それよりもすでに、“受け取りを拒まれている”。
それは無視じゃない。もっと冷たい。手紙を燃やすのでもなく、最初からこちらの名が、存在してはいけないみたいな――。
青年が、唇を動かした。
やはり言葉は出ない。出そうとする動きだけが、空気を震わせる。
コハクが、指で「静かに」と示す。
そして腰の工具袋を探り、銀粉の小瓶を取り出した。
ふたを開ける音が、妙に大きく感じられた。
(……音が大きいんじゃない。世界が薄いから、やることことが全部、目立つ)
ツムギは息を殺し、暗がりの奥へと目を凝らした。
塔の内部は、クランの役所と同じ匂いがした。乾いた紙と、古いインクと、湿った石壁の匂い。
そして、その匂いの中心に――机が一つ。
灯りはないのに、机の上だけが白い。
白い帳面が開かれ、ページがめくられている。
パラ。
パラ。
机の向こうに、座っている者がいた。
人間だ。
二十代くらいに見える。髪はまとめられ、袖は肘までまくり上げられている。
だが目が――生きているのに、人格のある目をしていなかった。
瞳が合わない。こちらはのぞき込むように意識しても、向こうはツムギをただの風景の一部として、書類の続きを追うだけだ。
「……」
青年の唇が「人だ」と動いたのが分かった。
コハクは銀粉の小瓶を握ったまま、視線だけでツムギに問いかける。
(あれ、今回の黒幕──本人?それとも、後ろに誰かいる?)
ツムギは小さく首を振った。本人かどうかを判断するには、材料が少なすぎる。
だが、一つだけ確かなことがある。
あの人間が“この国を消している”。
机の上の帳面に、黒い線が一本引かれた。
その直後、ツムギの意識する記憶が、クランを含め、さらに遠くなる感覚がした。
(線が、外の世界とここを、隔離させてる)
コハクが、床に銀粉をひとつまみ落とした。
粉は散らばらず、床の一点へすうっと寄る。まるで磁石みたいに。
「……ここも、綴じられてる。帳面と床が、同じ糸でつながってる。私たちの響路や、導管と同じ」
コハクが、口の形だけで言った。声は出ないのに、意味が胸に届く。
青年が布切れを胸の内側へ押し込んだ。
失われないようにと、抱えるような仕草だった。
──その瞬間、机の人間の手が止まった。
止まったまま、紙の上に指先を置く。
爪は短い。指は荒れている。働き続けた手だ。
そして、その指が――帳面の空白を、ゆっくりなぞった。
すると、空白の上に浮かび上がる。
『来訪者』
ツムギの喉が、ひやりとした。
名喰いのような威圧ではない。だが感情が読めないぶん、恐さの底が把握できない。
「書かれたら終わり」──?
机の人間が、顔を上げた。
ようやく目が合った。
拒絶も、怒りも、悪意も、好奇もない。
ただ――“手続きを進める者”の目。
口が動く。彼が自分で〈外に届けるもの〉を封じたのだ。むろん声はない。
それでも、意味だけが刺さるように届いた。
――所属。
――名。
――目的。
青年が震えた。
あの布切れの紋が、ほんのわずか薄くなった気がした。
ツムギは反射的に、青年の背を二度かるく叩く。
ここでへたり込んだら、帳面の都合のいい形で「処理」される。そんな確信があった。
そのとき、背後で――
コツ、コツ。
石を叩く音がした。
扉の外から、あの子どもが入ってきたのだ。
子どもは走らない──いや、外につながる強い力は封じられてる。走れない。
息が切れているのに、そのまま他人事のように見える。
口を大きく開いて、必死に叫ぶ形をした。
机の人間の目が、子どもへ移った。
そして何のためらいもなく、帳面のページをめくった。
パラ。
どこかのページに、図ばかりの部分があった。
人の形。小さい形。――子どもと同じくらいの大きさ。
机の人間の指が、その図の喉元に触れた。
白い紙の上の喉が、すうっと消えた。
子どもが、胸を押さえた。
音を失っていくのではない。最初から「出せない」ことにされたように。
コハクが怒りで一歩踏み出しかけ、ツムギが腕で止めた。
止めたのは、臆病だからではない。
ここで相手に“触れた”という事実が、帳面にとって有益な情報になるかもしれない。
ツムギは歯を食いしばり、机の人間を見据えた。
声が出なくとも、意味だけはまだ届く。
ツムギは、ゆっくりと口を動かした。
――やめろ。
机の人間は、眉一つ動かさない。
代わりに、帳面の『来訪者』の欄の横へ、ペン先を置いた。
書く気だ。
誰の名を?
ツムギの背中に冷たい汗が走った。
ここで名を差し出したら、それは「存在していいもの」として権利が生まれる代わりに――外へ戻る道や、帰る理由や、国の記憶を帳面に“支払い”させられる。
青年が、首を横にふった。必死に。
(名乗るな)
(書かせるな)
ツムギは一瞬だけ迷い、考えをすぐに捨てた。
正しさを探している暇はない。
コハクの銀粉瓶へ手を伸ばし、蓋をひねる。
床の縫い目、そして帳面の線にも反応するのなら、綴じている糸の始点――そこだけでも崩せば、相手の力に介入できる。
机の人間が、ペンを走らせた。
スッ。
黒い線が一文字目の形を作りかける。
その瞬間、床の縫い目が、細く震えた。
子どもが、机を叩いた。
必死な合図。
“それ”を書かせるな、と。
ツムギは銀粉をひとつまみ、宙へ散らす。
粉は落ちない。
空気の中で一度だけ止まり、見えない糸をなぞるみたいに、机へ向かって吸い寄せられた。
机の人間の手元――帳面の縁に、粉が貼りつく。
そこに、細く、強い縫い目が浮かび上がった。
ページの端ではない。
“欄”そのものから縫われている糸の線。
(個人に使われてる線──ここだ)
ツムギが指先で、その縫い目を押さえようとした――
その直前。
机の人間が、初めて表情を動かした。
笑ったのではない。
“確認”の顔。
そして、意味だけが落ちてくる。
『――受理』
同時に、床の縫い目がきゅっと締まり、ツムギの足首が、見えない紐で軽く引かれた。
転ばない程度。
けれど、逃げない程度に。
(……捕まえ方が、いやに理性的だ)
ツムギは踏ん張り、縫い目へ指を伸ばす。
間に合え。
この国が消えたのは、怪物のせいじゃない。
誰かが決めた“手順”で、消したからだ。
──ツムギの指が、縫い目の根元に触れた瞬間、帳面のペン先が、何らかの理解しかねる力に、ほんのわずか震える。
ツムギはその震えを逃さず――
縫い目を、“欄”から剥がしにかかった。




