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鳴らない鈴  作者: 久賀 広一
3章 遠き思い、近き人
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第4話 手続きの根元


 扉の影に踏み込んだ瞬間、外の光が、後ろで閉じられたように心細くなった。

 実際には、尖塔から普通に出ることはできる。けれど、背中側の世界が、幕で覆われたみたいに、遠くなった。

(……こんな感じで、この国は皆に、忘れられていったのかも)

 ツムギはそう思いながら、前に向き直った。

 暗がりの奥では――


 ……パラ。

 パラ。


 変わらず、白い帳面がめくられている。

 街と同じで、誰の気配もないのに、その指先だけが存在しているような規則正しさだった。


 ツムギは喉を押さえた。

 ここでは声が届かない。いや、それよりもすでに、“受け取りを拒まれている”。

 それは無視じゃない。もっと冷たい。手紙を燃やすのでもなく、最初からこちらの名が、存在してはいけないみたいな――。


 青年が、唇を動かした。

 やはり言葉は出ない。出そうとする動きだけが、空気を震わせる。

 コハクが、指で「静かに」と示す。

 そして腰の工具袋を探り、銀粉の小瓶を取り出した。

 ふたを開ける音が、妙に大きく感じられた。

(……音が大きいんじゃない。世界が薄いから、やることことが全部、目立つ)


 ツムギは息を殺し、暗がりの奥へと目を凝らした。

 塔の内部は、クラン(自分の育った街)の役所と同じ匂いがした。乾いた紙と、古いインクと、湿った石壁の匂い。

 そして、その匂いの中心に――机が一つ。

 灯りはないのに、机の上だけが白い。

 白い帳面が開かれ、ページがめくられている。

 パラ。

 パラ。


 机の向こうに、座っている者がいた。

 人間だ。

 二十代くらいに見える。髪はまとめられ、袖は肘までまくり上げられている。

 だが目が――生きているのに、人格のある目をしていなかった。

 瞳が合わない。こちらはのぞき込むように意識しても、向こうはツムギをただの風景の一部として、書類の続きを追うだけだ。


「……」

 青年の唇が「人だ」と動いたのが分かった。

 コハクは銀粉の小瓶を握ったまま、視線だけでツムギに問いかける。

(あれ、今回の黒幕──本人?それとも、後ろに誰かいる?)

 ツムギは小さく首を振った。本人かどうかを判断するには、材料が少なすぎる。


 だが、一つだけ確かなことがある。

 あの人間が“この国を消している”。


 机の上の帳面に、黒い線が一本引かれた。

 その直後、ツムギの意識する記憶が、クランを含め、さらに遠くなる感覚がした。

(線が、外の世界とここを、隔離させてる)


 コハクが、床に銀粉をひとつまみ落とした。

 粉は散らばらず、床の一点へすうっと寄る。まるで磁石みたいに。

「……ここも、綴じられてる。帳面と床が、同じ糸でつながってる。私たちの響路や、導管と同じ」

 コハクが、口の形だけで言った。声は出ないのに、意味が胸に届く。


 青年が布切れを胸の内側へ押し込んだ。

 失われないようにと、抱えるような仕草だった。

 ──その瞬間、机の人間の手が止まった。

 止まったまま、紙の上に指先を置く。

 爪は短い。指は荒れている。働き続けた手だ。

 そして、その指が――帳面の空白を、ゆっくりなぞった。

 すると、空白の上に浮かび上がる。


 『来訪者』


 ツムギの喉が、ひやりとした。

 名喰いのような威圧ではない。だが感情が読めないぶん、恐さの底が把握できない。

 「書かれたら終わり」──?


 机の人間が、顔を上げた。

 ようやく目が合った。

 拒絶も、怒りも、悪意も、好奇もない。

 ただ――“手続きを進める者”の目。


 口が動く。彼が自分で〈外に届けるもの〉を封じたのだ。むろん声はない。

 それでも、意味だけが刺さるように届いた。


 ――所属。

 ――名。

 ――目的。

 

 青年が震えた。

 あの布切れの紋が、ほんのわずか薄くなった気がした。

 ツムギは反射的に、青年の背を二度かるく叩く。

 ここでへたり込んだら、帳面の都合のいい形で「処理」される。そんな確信があった。


 そのとき、背後で――

 コツ、コツ。

 石を叩く音がした。

 扉の外から、あの子どもが入ってきたのだ。

 子どもは走らない──いや、外につながる強い力は封じられてる。走れない。

 息が切れているのに、そのまま他人事のように見える。

 口を大きく開いて、必死に叫ぶ形をした。

 机の人間の目が、子どもへ移った。

 そして何のためらいもなく、帳面のページをめくった。


 パラ。

 どこかのページに、図ばかりの部分があった。

 人の形。小さい形。――子どもと同じくらいの大きさ。


 机の人間の指が、その図の喉元に触れた。

 白い紙の上の喉が、すうっと消えた。

 子どもが、胸を押さえた。

 音を失っていくのではない。最初から「出せない」ことにされたように。

 コハクが怒りで一歩踏み出しかけ、ツムギが腕で止めた。


 止めたのは、臆病だからではない。

 ここで相手に“触れた”という事実が、帳面にとって有益な情報になるかもしれない。

 ツムギは歯を食いしばり、机の人間を見据えた。

 声が出なくとも、意味だけはまだ届く。

 ツムギは、ゆっくりと口を動かした。


 ――やめろ。

 机の人間は、眉一つ動かさない。

 代わりに、帳面の『来訪者』の欄の横へ、ペン先を置いた。

 書く気だ。

 誰の名を?


 ツムギの背中に冷たい汗が走った。

 ここで名を差し出したら、それは「存在していいもの」として権利が生まれる代わりに――外へ戻る道や、帰る理由や、国の記憶を帳面に“支払い”させられる。


 青年が、首を横にふった。必死に。

(名乗るな)

(書かせるな)

 ツムギは一瞬だけ迷い、考えをすぐに捨てた。

 正しさを探している暇はない。

 コハクの銀粉瓶へ手を伸ばし、ふたをひねる。


 床の縫い目、そして帳面の線にも反応するのなら、綴じている糸の始点――そこだけでも崩せば、相手の力に介入できる。


 机の人間が、ペンを走らせた。

 スッ。

 黒い線が一文字目の形を作りかける。

 その瞬間、床の縫い目が、細く震えた。

 子どもが、机を叩いた。

 必死な合図。

 “それ”を書かせるな、と。

 ツムギは銀粉をひとつまみ、宙へ散らす。

 粉は落ちない。

 空気の中で一度だけ止まり、見えない糸をなぞるみたいに、机へ向かって吸い寄せられた。


 机の人間の手元――帳面の縁に、粉が貼りつく。

 そこに、細く、強い縫い目が浮かび上がった。

 ページの端ではない。

 “欄”そのものから縫われている糸の線。

(個人に使われてる線──ここだ)

 ツムギが指先で、その縫い目を押さえようとした――


 その直前。

 机の人間が、初めて表情を動かした。

 笑ったのではない。

 “確認”の顔。

 そして、意味だけが落ちてくる。


 『――受理』


 同時に、床の縫い目がきゅっと締まり、ツムギの足首が、見えない紐で軽く引かれた。

 転ばない程度。

 けれど、逃げない程度に。

(……捕まえ方が、いやに理性的だ)

 ツムギは踏ん張り、縫い目へ指を伸ばす。

 間に合え。


 この国が消えたのは、怪物のせいじゃない。

 誰かが決めた“手順”で、消したからだ。


 ──ツムギの指が、縫い目の根元に触れた瞬間、帳面のペン先が、何らかの理解しかねる力に、ほんのわずか震える。

 ツムギはその震えを逃さず――

 縫い目を、“欄”から剥がしにかかった。








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