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鳴らない鈴  作者: 久賀 広一
1章 音核盗難
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第3話 輪の中心で


 輪は、呼吸だった。

 記録館の広間にできた円は、ゆっくりふくらみ、ゆっくりしぼむ。

 人びとは「一人一言」で紐綴じに思いを通し、ツムギは綴じ目を受け取っては束に重ねる。ひとつ増えるたび、散っていた拍がわずかにそろい、皆の心が落ち着いていくのが分かった。


「次の方。——いちばん大事な一言だけ、ください」

 言葉を多くしない。それが今は効いた。

 母子は互いの笑いの形をまね、店主は「明日また開く」と口だけで言い、年寄りは遠い名をそっと形づくる。

 綴じ目が小さく光って束に収まる。束は重くなり、その集まりは街の重心になっていく。


 鐘塔からいったん引き上げてきたナドは、輪の外を回り、手振りで合図していた。

「列を細く」「子は先」「話は短く」——それだけで空気が崩れない。理屈を並べるより、今は目で分かる方が早い。


 入口から衛兵が二人入ってきた。声はうまく出ないが、片方が紙束を掲げる。塔の点検階の通行簿だという。ツムギが目で問うと、ナドは紙束を受け取り、素早くめくった。日付の列に、ひとつだけ空白がある。

 師は紙面を指先で軽く叩き、それをツムギへ示したのち、口だけで「あと」と告げる。いまは輪を崩さない。調べるのは明け方でいい。


 ツムギはふと、束の重みをそっと腕でゆすった。

 綴じ目の細かな気配が、自分の意識へ移ってくる感じがある。気のせいかもしれない。それでも、体の中の何か(・・)が反応しているように感じる。

 理由を考えかけて、やめた。師と同じように、手を動かす夜だ。


 少年が紐を差し出す。隣のわらべの指はまだ冷たい。ツムギは胸の低いところを指で示す。

「ここで息をひとつ。——こわさは、声にすると軽くなる」

 童は目を閉じ、口の形をつくった。綴じ目はすぐ締まり、光がうすく宿る。

「ありがとう。朝になったら、もう一度それを思い出して」

 彼は目を細めて返し、列を離れた。


 少し離れた机では、書記の見習いが札を書いている。ツムギは横を通り過ぎざま、小さく言った。

「時刻と場所は必ず記入して。名前は要らないから。…身分なんかが混じってくると、純粋な拍に影響する」

 細かい理由は言わないが、足場だけは残す。

 札が増え、束が重なり、輪の呼吸は保たれる。誰かが灯を足し、誰かが子を抱きあげる。

 外の匂いが少しずつ変わった。湯気の甘さが立ち、湿った石のにおいが増える。夜は深いところを回って、明け方の方角へ向かっていた。


 師のナドが輪の内側に入り、また短く声を置く。

「ここからは間を伸ばす。——ひとことの前に、息を置け」

 輪の中で目配せが走り、言葉の前に同じ長さの息が生まれる。拍がさらに揃う。


 ツムギは気づいた。自分の喉の動きが、その息の長さと、いつの間にかぴたりと合っている。綴じ目を作る指も、自然にその間で動いていた。

 師がこちらを一瞥する。──確かめるような、安心するような目だ。ツムギは小さく会釈で応じた。


 ほどなくして、玄関に立っていた見張りに合図して、若い衛兵が戻ってきたようだった。手には小さな瓶。

 栓を開けると、かすかな樹脂の匂いがした。

 ──塔の封緘ふうかんに使う松脂だ。

 衛兵は紙に「内側の枠だけに匂い」と書いて見せる。


 ナドは瓶の口を布で塞ぎ、落ち着いた調子で言った。

「外からじゃない、で決まりだな」

 コハクの所見と合う。鍵か、それと同じことができる解錠の技だ。どちらにせよ、人をあざむく仕事と断定できる。


 …綴じの列がひと区切りついたところで、ツムギは声の束を、広間の隅の箱に収めた。

 底には薄い布が敷いてあり、衝撃をやわらげる。──ナドがその上へ、掌を置く。

「これが合わせの目印になる。明日の朝、コハクに渡そう」

 ツムギはうなずき、箱を壁際から少し寄せた。何かあっても、すぐ抱えられる位置に。

 ──理由を添えて動くと、心が落ち着くものだ。そして、胸のざわめきが生まれていく。それが次の作業に変わり、その動きは、また次の理由と仕事を生んでいく。


「…水を」

 小さな声がして、さきほどの童児の母が盆を抱えてきた。紙杯をならべ、輪の外にも配ってゆく。

「──助かります」

 ツムギはいた手にも紙杯を受け取り、遠い椅子の老人に手渡した。老人はうっすら笑い、口だけで「ありがとう」と言う。

 声がなくても言葉は届く。拍がそろっているなら、なおさらだ。


 そのとき、玄関の陰がかすかに動いた。

灯の弱いところに、黒いめんをつけた人影が浮かんだ気がする。

 ──見直すと、人の流れに紛れたそれが、こちらを見ていた。口は動かない。それに目の位置もはっきり分からないのに、視線の重みだけは伝わる。

 ツムギは自然と箱が気になり、位置を確かめた。玄関わきの見張りも何か不審さを感じたのか、中へと指を立てて合図を送ってくる。

 ツムギがナドへ視線をやると、師は目尻をわずかに動かし、首を横へ。——いまは追うな、という合図。


理由は明快だ。輪を崩すわけにはいかない。拍を保つことが最優先だ。

ツムギは面から目を外し、列の先頭に手を上げた。

「──次の方、どうぞ」


影は、しばらく玄関の向こうで動かず、やがて人いきれへ溶けるように消えた。

 彼らは、試しているのだろうか。輪をたもち、拍を崩さずに夜を渡れるかを。…街に“揺らぎ”が生まれないのかを。


 ツムギは胸からへその下まで息をひとつ通し、綴じ目を受け取った。指は迷わない。広間の呼吸は、充分に生きている。


 外では、見張り台の衛兵が砂時計を返し、交代の刻を知らせる合図を作った。入口から中へと、また手信号が滑る。

 ツムギは箱の位置をもう一度確かめ、ナドと目を合わせた。師は指を立てて合図し、玄関へ向かった。

 見張りの交代と、その配置替えを外の隊長と打ち合わせるのだ。


 ツムギは輪の中心に身を戻し、両手を体の前に上げた。

「——一人一言。息を置いて、いきます」

列が動き、拍がそろう。


明け方までの道が、大きく見えた気がした。

──だがそこに、影の歩みも確かにあった。



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