第3話 輪の中心で
輪は、呼吸だった。
記録館の広間にできた円は、ゆっくりふくらみ、ゆっくりしぼむ。
人びとは「一人一言」で紐綴じに思いを通し、ツムギは綴じ目を受け取っては束に重ねる。ひとつ増えるたび、散っていた拍がわずかにそろい、皆の心が落ち着いていくのが分かった。
「次の方。——いちばん大事な一言だけ、ください」
言葉を多くしない。それが今は効いた。
母子は互いの笑いの形をまね、店主は「明日また開く」と口だけで言い、年寄りは遠い名をそっと形づくる。
綴じ目が小さく光って束に収まる。束は重くなり、その集まりは街の重心になっていく。
鐘塔からいったん引き上げてきたナドは、輪の外を回り、手振りで合図していた。
「列を細く」「子は先」「話は短く」——それだけで空気が崩れない。理屈を並べるより、今は目で分かる方が早い。
入口から衛兵が二人入ってきた。声はうまく出ないが、片方が紙束を掲げる。塔の点検階の通行簿だという。ツムギが目で問うと、ナドは紙束を受け取り、素早くめくった。日付の列に、ひとつだけ空白がある。
師は紙面を指先で軽く叩き、それをツムギへ示したのち、口だけで「あと」と告げる。いまは輪を崩さない。調べるのは明け方でいい。
ツムギはふと、束の重みをそっと腕でゆすった。
綴じ目の細かな気配が、自分の意識へ移ってくる感じがある。気のせいかもしれない。それでも、体の中の何かが反応しているように感じる。
理由を考えかけて、やめた。師と同じように、手を動かす夜だ。
少年が紐を差し出す。隣の童の指はまだ冷たい。ツムギは胸の低いところを指で示す。
「ここで息をひとつ。——こわさは、声にすると軽くなる」
童は目を閉じ、口の形をつくった。綴じ目はすぐ締まり、光がうすく宿る。
「ありがとう。朝になったら、もう一度それを思い出して」
彼は目を細めて返し、列を離れた。
少し離れた机では、書記の見習いが札を書いている。ツムギは横を通り過ぎざま、小さく言った。
「時刻と場所は必ず記入して。名前は要らないから。…身分なんかが混じってくると、純粋な拍に影響する」
細かい理由は言わないが、足場だけは残す。
札が増え、束が重なり、輪の呼吸は保たれる。誰かが灯を足し、誰かが子を抱きあげる。
外の匂いが少しずつ変わった。湯気の甘さが立ち、湿った石のにおいが増える。夜は深いところを回って、明け方の方角へ向かっていた。
師のナドが輪の内側に入り、また短く声を置く。
「ここからは間を伸ばす。——ひとことの前に、息を置け」
輪の中で目配せが走り、言葉の前に同じ長さの息が生まれる。拍がさらに揃う。
ツムギは気づいた。自分の喉の動きが、その息の長さと、いつの間にかぴたりと合っている。綴じ目を作る指も、自然にその間で動いていた。
師がこちらを一瞥する。──確かめるような、安心するような目だ。ツムギは小さく会釈で応じた。
ほどなくして、玄関に立っていた見張りに合図して、若い衛兵が戻ってきたようだった。手には小さな瓶。
栓を開けると、かすかな樹脂の匂いがした。
──塔の封緘に使う松脂だ。
衛兵は紙に「内側の枠だけに匂い」と書いて見せる。
ナドは瓶の口を布で塞ぎ、落ち着いた調子で言った。
「外からじゃない、で決まりだな」
コハクの所見と合う。鍵か、それと同じことができる解錠の技だ。どちらにせよ、人を欺く仕事と断定できる。
…綴じの列がひと区切りついたところで、ツムギは声の束を、広間の隅の箱に収めた。
底には薄い布が敷いてあり、衝撃をやわらげる。──ナドがその上へ、掌を置く。
「これが合わせの目印になる。明日の朝、コハクに渡そう」
ツムギはうなずき、箱を壁際から少し寄せた。何かあっても、すぐ抱えられる位置に。
──理由を添えて動くと、心が落ち着くものだ。そして、胸のざわめきが生まれていく。それが次の作業に変わり、その動きは、また次の理由と仕事を生んでいく。
「…水を」
小さな声がして、さきほどの童児の母が盆を抱えてきた。紙杯をならべ、輪の外にも配ってゆく。
「──助かります」
ツムギは空いた手にも紙杯を受け取り、遠い椅子の老人に手渡した。老人はうっすら笑い、口だけで「ありがとう」と言う。
声がなくても言葉は届く。拍がそろっているなら、なおさらだ。
そのとき、玄関の陰がかすかに動いた。
灯の弱いところに、黒い面をつけた人影が浮かんだ気がする。
──見直すと、人の流れに紛れたそれが、こちらを見ていた。口は動かない。それに目の位置もはっきり分からないのに、視線の重みだけは伝わる。
ツムギは自然と箱が気になり、位置を確かめた。玄関わきの見張りも何か不審さを感じたのか、中へと指を立てて合図を送ってくる。
ツムギがナドへ視線をやると、師は目尻をわずかに動かし、首を横へ。——いまは追うな、という合図。
理由は明快だ。輪を崩すわけにはいかない。拍を保つことが最優先だ。
ツムギは面から目を外し、列の先頭に手を上げた。
「──次の方、どうぞ」
影は、しばらく玄関の向こうで動かず、やがて人いきれへ溶けるように消えた。
彼らは、試しているのだろうか。輪を保ち、拍を崩さずに夜を渡れるかを。…街に“揺らぎ”が生まれないのかを。
ツムギは胸から臍の下まで息をひとつ通し、綴じ目を受け取った。指は迷わない。広間の呼吸は、充分に生きている。
外では、見張り台の衛兵が砂時計を返し、交代の刻を知らせる合図を作った。入口から中へと、また手信号が滑る。
ツムギは箱の位置をもう一度確かめ、ナドと目を合わせた。師は指を立てて合図し、玄関へ向かった。
見張りの交代と、その配置替えを外の隊長と打ち合わせるのだ。
ツムギは輪の中心に身を戻し、両手を体の前に上げた。
「——一人一言。息を置いて、いきます」
列が動き、拍がそろう。
明け方までの道が、大きく見えた気がした。
──だがそこに、影の歩みも確かにあった。




