第3話 無音のページ
ツムギが歪みへ一歩、足を入れた瞬間――空気が、紙を裂くみたいに小さく鳴った。
音はそこで終わり、世界が“きゅっ”と平面化する。
空はあるのに高さがなく、草原は続いているのに距離感が曖昧だ。
「……入った?」
青年が、喉の奥で言葉を転がすように尋ねた。
「入った。たぶん」
ツムギが答えた。自分の声が、自分の耳に戻ってくる感覚がない。
コハクが眉を寄せる。
「ねえ。いま私、しゃべった?」
「しゃべった」
「……じゃあ、なんで“伝わった気”がしないのよ」
冗談みたいなやりとりなのに、背筋は冷えたままだ。
声はたしかに届いている。しかし、届いた先が、受け取ることをやめてしまうような。
青年が布切れを握り直し、まっすぐ前を見た。
そこに“街”がある。高低差のある、様々な建物や、進歩的な通り。
にぎやかな気配はまったくないのに、不思議と、そこでの暮らしはちゃんと伺える。
「……確かにうちの国だ」
青年の声が、かすれた。
ツムギは駆け出しそうになる青年の袖をつかんだ。
「待って。足元、見て」
土の色に、縫い目みたいに一本、線が走っている。
そこから、黒さが違う。踏めば、もちろん土は沈む。そしておそらく、踏んだ“こと”が、消される予感がある。
コハクがため息をつき、銀粉を摘んだ。
「勇気ある人は、最初に足を突っ込むの。なお、担当はツムギ」
「さっき突っ込んだのも僕だけど」
「追加の突っ込みも担当」
「ひどい」
コハクが銀粉をひらりと落とすと、粉は散らず、縫い目へ吸い寄せられた。
境界の力場。普通ではない圧力が、そこにはある。
「……ね。ここ、ただの道じゃない。私たちの“拍”みたいに、何かの特別な力。縫われてるみたい」
それを聞いて、青年が唇を噛んだ。
「……俺の国、縫い閉じられた……のか?」
ツムギは答えず、縫い目の外側――“踏んでも消えない側”を歩いてみた。
囲まれた景色の方へだけ、進めない。そこから先は、変わらない。けれど、縫い目が寄り添ってくるように、確かに動く。
それが、奥へ進んでいる証拠になった。普通なら、“変わる景色”の方へ進んでしまう。
けれどその仕組みが分かれば、逆に変わらない方へ──街の入口へと、やがてたどり着ける。
「……」
空気が、乾いてきた。
風景の匂いが、薄まっていく。土の匂いも、煙の匂いも──代わりに、古書を開いたような、紙の匂いが立ち上がる。
明らかに、まともじゃなかった。
……街の入り口にたどり着き、通りの端に、倒れた掲示板を見つけた。
ビラが何枚も貼られている。だが、そこに書かれた文字は、目が焦点を結ぶ前に、意味だけが抜け落ちていく。
「……これ、怖い」
コハクが短く言った。ふざける余裕は、もうすでになくなっている。
「!」
そのとき、通りの奥で――小さな影が動いた。
子供だ。
七、八歳くらい。こちらに気づいた瞬間、逃げるでもなく、立ち尽くした。
口が動いている。必死に何か言っている。けれど、音が出ない。
青年が一歩踏み出しかけ、ツムギが止めた。
「ゆっくり。驚かせると、やり取りできない──消される、かもしれない」
ツムギは膝をつき、目線を合わせた。
「大丈夫。聞くよ」
子どもは驚いたように瞬きを二度して、震える指で自分の胸を突いた。
そこに小さな布。青年の布切れと同じ紋――ただし、半分が掠れている。
ツムギの喉が、熱くなる。
声を出そうとした瞬間、口の中の空気が焼けるように、痛みも走る。
それでも、届けるように言った。
「……君は、どこから?」
子どもは答えない。答えられない。
代わりに、背後の高い影――細い尖塔を指した。
尖塔の上には旗がある。
旗布は揺れているのに、模様がない。空白のまま、風だけ受けている。
青年が息をのんだ。
「……あれ、役所の塔だ。国の紋を掲げてた。……なんで、白い?」
コハクが地面を見た。
通りの石に、靴跡が途中まで続いている。
途中で、ふっと消えている。消えた先には、縫い目が走っていた。
「ここで――終わった?」
青年が震える声で言う。
「俺の国は……ここでも、外と切れてるのか」
子どもが、必死に首を振った。違う、と言いたいみたいに。
そして、口を大きく開く。叫ぶ形。
その音の代わりに――
尖塔のほうから、紙をめくる音がした。
パラ、と一枚。
パラ、ともう一枚。
この街には風がない。
じっとしていると耳がしびれるような無音の中、帳面だけが、誰かの指先でめくられている。
ツムギは立ち上がり、青年を見た。
「行こう。あそこに“原因”がいる」
青年は頷いた。恐怖で顔色は抜けているのに、目だけは逸らさない。
コハクが腰に提げた小さな工具を握り、口の端を上げた。
「……ねえ。こういう時、普通は“帰ろう”って言うのよ」
「──言わないの?」
「言ったら負けな気がする」
「何と戦ってるの」
「自分の情けなさ。けど、弱さも大事だよね」
笑いは出ない。でもその言葉で、足は動く。
三人が尖塔へ向けて歩き出すと、背後で子どもが何かを叩いた。
石を叩く音。合図のような、焦りの音。
ツムギが振り返ると、子どもは指で“口”を示し、次に“喉”を示し、最後に――尖塔を指した。
(声を……取られた?)
ツムギの喉奥が、ぞくりと冷えた。
国が消えたのではない。
この国は、“外へ届けるもの”を奪われて、透明になった。
……無人の道を行き、尖塔の麓にたどり着くと、その扉は開いていた。
中は暗い。だが奥で、確かに紙がめくられている。
パラ。
パラ。
その音の合間に、誰かが囁く気配がした。
無音なのに、意味だけが刺さる囁き。
――「来訪者」
ツムギは一歩、扉の影へ入る。
背中のほうで、クランの街の鐘が、もう一度鳴った気がした。
そして暗がりの奥で、白い帳面の上に、黒い線が一本引かれるのが見えた。
それは、道ではない。
帰り道を、消す線だった。




