第2話 名乗れぬ旅人
境界を越えた途端、背中のほうで街の気配が、すっと薄くなった。
石畳の硬さが途切れ、足裏に土の湿りが移る。──空は広いのに、どこか近い。
青年は歩きながら、何度か口を開きかけて、やめた。
言葉が喉に引っかかる──というより、言葉のほうが自分から逃げていくみたいだった。
「国が、なくなったって……」
コハクが、歩幅を合わせたまま言う。「大火?戦争?それとも――」
「……どれでもない」
青年は首を振り、革紐を襟元から引き出した。小さな布切れがついていて、そこに古い紋が刺繍されている。
見た瞬間、ツムギの視界が、かすかに揺れた。彼の『喉』が反応したことに、本人も驚く。
「これが、うちの印だった。……“だった”って言うの、変だよな」
青年は笑おうとして、失敗した。
「昨日まで確かにあった。道も、家も、畑も、川も。なのに朝になったら――地図の上からも、人の口からも、抜け落ちたみたいに」
ツムギは思わず聞き返した。
「覚えてる人は?」
「……少ない。たぶん、俺みたいに“外”にいたやつだけだ」
青年は布切れを握り込み、指先を白くした。
「戻ろうとしても、戻れない。戻る道が、見つからない」
その言葉に、ツムギは足を止めかけた。
道が、見つからない。
それは迷子の話じゃない。世界の作りが、そこだけ抜け落ちたみたいな――
「止まらないで」
コハクが小さく言う。からかいでも励ましでもなく、妙に真剣な声だった。
「止まると、ここ……変なふうに“同じところ”に戻される気がする」
ツムギは頷いた。確かに、草原の風の音が、さっきから同じ位置で鳴っている。
前へ進んでいるのに、景色が“進んだ実感”をくれない。
やがて、半ば土に埋もれた石標が現れた。
風化した文字は読めない。けれど、その表面に――青年の布切れと同じ紋の、削れた跡があった。
「……ここ、通ったことある?」
ツムギが言うと、青年は目を見開いた。
「ない。けど……たぶん、うちの国の“端”だ」
次の瞬間だった。
石標の紋が、砂を払うみたいに、さらりと消えた。
そこには、最初から何も刻まれていなかったかのような、ただの石の肌だけが残った。
コハクが測音石を取り出しかけて、途中でやめた。代わりに、石標の周りの草を指でなぞる。
──ややあって、爪先で銀粉を一つまみ落とすと、粉は地面に散らず、一本の筋になって石標の脇へと寄せられた。
「……線が、動いてる。ここ、目印じゃなくて――“境い目そのもの”の力が働いてる。塔の“心座”の封緘みたいに」
ツムギの喉が乾く。
青年が、布切れをくしゃりと握ったまま、低く言った。
「俺は、これを捨てたかったわけじゃない。
でも持ってると、歩くたびに……自分が、どこから来たのかが薄らんでいく。捨てたら楽になる気もした。けど――捨てた瞬間、俺の中の“帰りたい”まで消える気がして」
ツムギは、石標の脇に立つ。
街の中でも外でもない場所。選ぶための場所。
さっき自分が言ったことが、そのまま胸に返ってきた。
「捨てなくていい」
ツムギは言った。短く、確信を持った言い方で。
「でも、ひとりで抱えるのはやめよう。――それだけ」
青年が、わずかに息をのんだ。
コハクが、横から小さく肩をすくめる。
「はい。いまの、けっこう良いこと言った」
「言ってない」
「言った」
そのやりとりの最中、草原の風向きが変わった。
さっきまで同じ位置で鳴っていた音が、少しだけ遠くへずれる。
ツムギは、その“ずれ”を掴むように顔を上げた。
遠く、地平線の手前で、空気が薄く歪んでいる。陽炎みたいだけれど、揺れ方がもっと、作りものめいている。
そこだけが、世界の裏側に触れているみたいに、昏い感じがした。
「……あっちだ」
ツムギが言う。
青年が目を細める。
「何が?」
「帰れない道の“縁”」
ツムギは言ってから、自分でも奇妙に思った。理屈じゃない。足が、そっちへ行けと言っている。
三人が歪みへ近づくと、草が急に短くなり、土が黒く締まった。
そして、地面の上に“失われた跡”があった。
倒れた木製の標。裂けた旗布。乾いた血のしみ。
その横に、靴跡が一つ――途中で、ふっと消えている。まるで、当たり前だと思って歩いた先が「無かった」みたいに。
青年の顔から、色が抜けた。
「……ここに、来ちゃいけなかったのか」
コハクが唇を噛む。
「来ちゃいけない場所なら……なんで、こんなに“呼ぶ”の。逆だよ。来なくちゃいけなかったんだ」
ツムギは、歪みの向こうを見つめた。
そこには、ただの景色のような街があった。屋根の輪郭。塔ではない高い影。人の気配が感じられないのに、暮らしの跡だけは几帳面に続いている。
そして、背中のほうで――クランの街が、遠いのに確かに在ると、告げる鐘が鳴った気がした。
ツムギは青年を見た。
「ここから先は、たぶん……戻るのが“難しい”んじゃない。下手をすれば、戻る理由まで失われる」
青年は布切れを握りしめたまま、頷いた。
「それでも――確かめたい。俺の国が、どこで落ちたのか」
ツムギは、歪みへ一歩、足を入れた。
空気が、紙を裂くみたいに小さく鋭く鳴った。
その向こうで、誰かが――今もまだ、助けを声にできないまま立ち尽くしている気がした。




