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鳴らない鈴  作者: 久賀 広一
3章 遠き思い、近き人
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第2話 名乗れぬ旅人


 境界を越えた途端、背中のほうで街の気配が、すっと薄くなった。


 石畳の硬さが途切れ、足裏に土の湿りが移る。──空は広いのに、どこか近い。

 青年は歩きながら、何度か口を開きかけて、やめた。

 言葉が喉に引っかかる──というより、言葉のほうが自分から逃げていくみたいだった。


「国が、なくなったって……」

 コハクが、歩幅を合わせたまま言う。「大火?戦争?それとも――」

「……どれでもない」

 青年は首を振り、革紐をえり元から引き出した。小さな布切れがついていて、そこに古い紋が刺繍されている。

 見た瞬間、ツムギの視界が、かすかに揺れた。彼の『(透声)』が反応したことに、本人も驚く。

「これが、うちのしるしだった。……“だった”って言うの、変だよな」

 青年は笑おうとして、失敗した。


「昨日まで確かにあった。道も、家も、畑も、川も。なのに朝になったら――地図の上からも、人の口からも、抜け落ちたみたいに」

 ツムギは思わず聞き返した。

「覚えてる人は?」

「……少ない。たぶん、俺みたいに“外”にいたやつだけだ」

 青年は布切れを握り込み、指先を白くした。

「戻ろうとしても、戻れない。戻る道が、見つからない」


 その言葉に、ツムギは足を止めかけた。

 道が、見つからない。

 それは迷子の話じゃない。世界の作りが、そこだけ抜け落ちたみたいな――

「止まらないで」

 コハクが小さく言う。からかいでも励ましでもなく、妙に真剣な声だった。


「止まると、ここ……変なふうに“同じところ”に戻される気がする」

 ツムギは頷いた。確かに、草原の風の音が、さっきから同じ位置で鳴っている。

 前へ進んでいるのに、景色が“進んだ実感”をくれない。


 やがて、半ば土に埋もれた石標が現れた。

 風化した文字は読めない。けれど、その表面に――青年の布切れと同じ紋の、削れた跡があった。

「……ここ、通ったことある?」

 ツムギが言うと、青年は目を見開いた。

「ない。けど……たぶん、うちの国の“端”だ」


 次の瞬間だった。

 石標の紋が、砂を払うみたいに、さらりと消えた。

 そこには、最初から何も刻まれていなかったかのような、ただの石の肌だけが残った。


 コハクが測音石を取り出しかけて、途中でやめた。代わりに、石標の周りの草を指でなぞる。

 ──ややあって、爪先で銀粉を一つまみ落とすと、粉は地面に散らず、一本の筋になって石標の脇へと寄せられた。

「……線が、動いてる。ここ、目印じゃなくて――“境い目そのもの”の力が働いてる。塔の“心座”の封緘ふうかんみたいに」


 ツムギの喉が乾く。

 青年が、布切れをくしゃりと握ったまま、低く言った。

「俺は、これを捨てたかったわけじゃない。

 でも持ってると、歩くたびに……自分が、どこから来たのかが薄らんでいく。捨てたら楽になる気もした。けど――捨てた瞬間、俺の中の“帰りたい”まで消える気がして」


 ツムギは、石標の脇に立つ。

 街の中でも外でもない場所。選ぶための場所。

 さっき自分が言ったことが、そのまま胸に返ってきた。

「捨てなくていい」

 ツムギは言った。短く、確信を持った言い方で。

「でも、ひとりで抱えるのはやめよう。――それだけ」


 青年が、わずかに息をのんだ。

 コハクが、横から小さく肩をすくめる。

「はい。いまの、けっこう良いこと言った」

「言ってない」

「言った」

 そのやりとりの最中、草原の風向きが変わった。

 さっきまで同じ位置で鳴っていた音が、少しだけ遠くへずれる。

 ツムギは、その“ずれ”を掴むように顔を上げた。

 遠く、地平線の手前で、空気が薄く歪んでいる。陽炎みたいだけれど、揺れ方がもっと、作りものめいている。

 そこだけが、世界の裏側に触れているみたいに、くらい感じがした。


「……あっちだ」

 ツムギが言う。

 青年が目を細める。

「何が?」

「帰れない道の“縁”」

 ツムギは言ってから、自分でも奇妙に思った。理屈じゃない。足が、そっちへ行けと言っている。


 三人が歪みへ近づくと、草が急に短くなり、土が黒く締まった。

 そして、地面の上に“失われた跡”があった。

 倒れた木製の標。裂けた旗布。乾いた血のしみ。

 その横に、靴跡が一つ――途中で、ふっと消えている。まるで、当たり前だと思って歩いた先が「無かった」みたいに。


 青年の顔から、色が抜けた。

「……ここに、来ちゃいけなかったのか」

 コハクが唇を噛む。

「来ちゃいけない場所なら……なんで、こんなに“呼ぶ”の。逆だよ。来なくちゃいけなかったんだ」


 ツムギは、歪みの向こうを見つめた。

 そこには、ただの景色のような街があった。屋根の輪郭。塔ではない高い影。人の気配が感じられないのに、暮らしの跡だけは几帳面に続いている。

 そして、背中のほうで――クランの街が、遠いのに確かに在ると、告げる鐘が鳴った気がした。


 ツムギは青年を見た。

「ここから先は、たぶん……戻るのが“難しい”んじゃない。下手をすれば、戻る理由まで失われる」

 青年は布切れを握りしめたまま、頷いた。

「それでも――確かめたい。俺の国が、どこで落ちた(・・・)のか」 


 ツムギは、歪みへ一歩、足を入れた。

 空気が、紙を裂くみたいに小さく鋭く鳴った。

 その向こうで、誰かが――今もまだ、助けを声にできないまま立ち尽くしている気がした。






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