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鳴らない鈴  作者: 久賀 広一
3章 遠き思い、近き人
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第1話 境界に立つ


 クランの朝は、驚くほどいつも通りだった。


 市場では果実が並び、井戸端では水桶の音が鳴り、昨日までの緊張など、誰も覚えていないかのようだ。


 ツムギは、その光景を少し離れた場所から見ていた。


 塔の外壁に背を預け、街のざわめきが、ちゃんと「生活」に戻っていることを確かめる。


(……平穏の価値……。どれくらいの人がそれを理解し、どれくらいの人が、それを必死に守っているんだろう)


 今回守られたのは、街の英雄譚ではない。

 誰かの犠牲でもない。

 これからも続く、何よりも多く願われることになるかもしれない、ごくありふれた日々だ。


「名残惜しそうな顔してる」


 隣にいたコハクが、腕を組んだ。

 からかうような声だが、その遠い目線は、街のはるか向こうを眺めている。


「そう見える?」

「……あと、少しだけ怖がってる」


 ツムギは苦笑した。

「当たってる」


 塔の門前には、旅支度を終えた袋が二つ置かれている。

 大げさな見送りはない。出発に必要なのは、歩き出す覚悟だけだ。


 街の外れへ続く道は、昔から一本しかない。 石畳は途中で途切れ、そこから先は、踏み固められた土と、低い草原になる。


 階段を降り、歩き出していた二人は、しばらくして足を止めた。

 街の通りが終わる、その境目に、古い石標が立っていた。


 文字は風化し、誰のための線だったのかも分からない。


「……ここ、前は“国境”だったらしいよ」

 コハクが言う。「今は、ただの目印」


 ツムギは石標の前で足を止めた。


 なぜか、動けなかった。音でも、気配でもない。ただ――誰かの意思が、向こう側にある。


「……来てる」


「え?」


 そのときだった。


 石標の向こう、草原の低い起伏の陰から、

 ひょい、と人影が現れた。


 青年だ。年は二十前後。旅装はくたびれているが、質の悪いものではない。


「やあ……えっと……」

 青年は、こちらを見て、少し困ったように笑った。「ここ、クラン連邦で合ってる?」


 言葉は通じる。

 だが、抑揚が微妙に違う。この街の人間ではない。


 コハクが一歩前に出る。

「合ってるけど。あなたは?」


 青年は、一瞬だけ視線を伏せた。


「……名乗るほどのものじゃない」

 それから、正直そうな目で言った。「国が、なくなった。だから……帰る場所もない」


 ツムギの背筋が、すっと冷える。


(国が……)


 青年は続けた。

「噂を聞いたんだ」

 風の音にかき消されないよう、少し声を強くして。

「この街には……“人の声を、最後まで聞く場所”があるって」

 コハクが思わず息を呑む。

 ツムギは、すぐには返事をせず、青年の目を見る。

「……それで?」

「それで、確かめに来た」

 青年は一歩だけ前に出た。

 境界線を越えない、ぎりぎりの位置で立ち止まる。

「本当にあるなら……頼みたいことがある」

 こぶしが、強く握られる。


「返してほしいわけじゃない」

 青年は、先にそれを否定した。

「助けてほしいとも、言わない」

 一瞬、言葉に詰まる。

「ただ……これを、持ったまま進んでいいのかが、分からなくなった」

 胸のあたりを、かすかに叩く。

「置いていっていい場所があるなら、そこに捨てれば、楽になる気もする。でも、捨てたら……自分が何で生きてきたのかまで、消える気がして」

「……」

 草原を渡る風が、無言になった三人の間を抜けていった。


 ツムギは、足元を見る。

 街の中ではない。

 かといって、完全な外でもない。

 ここは、境界だ。

 守る側でも、救われる側でもない――選ぶための場所。


 ツムギは顔を上げた。

「……ここを過ぎたら、逃げるだけになるかも」

「うん」

「戻るなら──きれいな答えじゃないかもしれない。正解じゃないかもしれない」

「……」

「でも、あなたの“生きてきた”答えが聞ける」

 青年は、ほんの少しだけ笑った。

 それは安心ではなく、覚悟の色だった。


(まだ捨てちゃいけない──)

 ツムギは石標の脇に立ち、外へ続く道を指す。

「じゃあ――まず歩こう」

 声は静かだが、はっきりしている。

「遠くから来た人の話は、立ち止まったままじゃ、最後まで聞けない」


 境界を越えて、連れゆく足音が、三つ。

 それは、戦いの始まりではない。

 だが――何よりも平穏、ありふれた日常を願うクラン(故郷)の声、心の一部が、街の外へ向かって動き出した音だった。




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