第1話 境界に立つ
街の朝は、驚くほどいつも通りだった。
市場では果実が並び、井戸端では水桶の音が鳴り、昨日までの緊張など、誰も覚えていないかのようだ。
ツムギは、その光景を少し離れた場所から見ていた。
塔の外壁に背を預け、街のざわめきが、ちゃんと「生活」に戻っていることを確かめる。
(……平穏の価値……。どれくらいの人がそれを理解し、どれくらいの人が、それを必死に守っているんだろう)
今回守られたのは、街の英雄譚ではない。
誰かの犠牲でもない。
これからも続く、何よりも多く願われることになるかもしれない、ごくありふれた日々だ。
「名残惜しそうな顔してる」
隣にいたコハクが、腕を組んだ。
からかうような声だが、その遠い目線は、街のはるか向こうを眺めている。
「そう見える?」
「……あと、少しだけ怖がってる」
ツムギは苦笑した。
「当たってる」
塔の門前には、旅支度を終えた袋が二つ置かれている。
大げさな見送りはない。出発に必要なのは、歩き出す覚悟だけだ。
街の外れへ続く道は、昔から一本しかない。 石畳は途中で途切れ、そこから先は、踏み固められた土と、低い草原になる。
階段を降り、歩き出していた二人は、しばらくして足を止めた。
街の通りが終わる、その境目に、古い石標が立っていた。
文字は風化し、誰のための線だったのかも分からない。
「……ここ、前は“国境”だったらしいよ」
コハクが言う。「今は、ただの目印」
ツムギは石標の前で足を止めた。
なぜか、動けなかった。音でも、気配でもない。ただ――誰かの意思が、向こう側にある。
「……来てる」
「え?」
そのときだった。
石標の向こう、草原の低い起伏の陰から、
ひょい、と人影が現れた。
青年だ。年は二十前後。旅装はくたびれているが、質の悪いものではない。
「やあ……えっと……」
青年は、こちらを見て、少し困ったように笑った。「ここ、クラン連邦で合ってる?」
言葉は通じる。
だが、抑揚が微妙に違う。この街の人間ではない。
コハクが一歩前に出る。
「合ってるけど。あなたは?」
青年は、一瞬だけ視線を伏せた。
「……名乗るほどのものじゃない」
それから、正直そうな目で言った。「国が、なくなった。だから……帰る場所もない」
ツムギの背筋が、すっと冷える。
(国が……)
青年は続けた。
「噂を聞いたんだ」
風の音にかき消されないよう、少し声を強くして。
「この街には……“人の声を、最後まで聞く場所”があるって」
コハクが思わず息を呑む。
ツムギは、すぐには返事をせず、青年の目を見る。
「……それで?」
「それで、確かめに来た」
青年は一歩だけ前に出た。
境界線を越えない、ぎりぎりの位置で立ち止まる。
「本当にあるなら……頼みたいことがある」
拳が、強く握られる。
「返してほしいわけじゃない」
青年は、先にそれを否定した。
「助けてほしいとも、言わない」
一瞬、言葉に詰まる。
「ただ……これを、持ったまま進んでいいのかが、分からなくなった」
胸のあたりを、かすかに叩く。
「置いていっていい場所があるなら、そこに捨てれば、楽になる気もする。でも、捨てたら……自分が何で生きてきたのかまで、消える気がして」
「……」
草原を渡る風が、無言になった三人の間を抜けていった。
ツムギは、足元を見る。
街の中ではない。
かといって、完全な外でもない。
ここは、境界だ。
守る側でも、救われる側でもない――選ぶための場所。
ツムギは顔を上げた。
「……ここを過ぎたら、逃げるだけになるかも」
「うん」
「戻るなら──きれいな答えじゃないかもしれない。正解じゃないかもしれない」
「……」
「でも、あなたの“生きてきた”答えが聞ける」
青年は、ほんの少しだけ笑った。
それは安心ではなく、覚悟の色だった。
(まだ捨てちゃいけない──)
ツムギは石標の脇に立ち、外へ続く道を指す。
「じゃあ――まず歩こう」
声は静かだが、はっきりしている。
「遠くから来た人の話は、立ち止まったままじゃ、最後まで聞けない」
境界を越えて、連れゆく足音が、三つ。
それは、戦いの始まりではない。
だが――何よりも平穏、ありふれた日常を願うクランの声、心の一部が、街の外へ向かって動き出した音だった。




