第14話 沈んだ街の心臓
黒い谷が揺れた。
沈んだ家々の輪郭が、砂のようにざらりと崩れ、
その奥から、押し殺したような“律”が響き始める。
〈結ぶ声……〉
〈過去ごと、今へ?〉
〈傷を抱えたまま歩むなど……切り捨てられない弱きものの、幻想〉
名喰いの声が、谷全体から同時に落ちてきた。
コハクが耳を押さえ、顔をゆがめる。
「……違う……!いまの揺れ……“街の罪”のせいじゃない……。下層の街の“痛み”……?」
ヴェンも銀糸を支えながら、息を飲んだ。
「この響き──かつての住民の『拍』か?……ひとつじゃねぇ。何十、何百……いや、何千も重なって……。まるで“街の心臓”が、捩じ上げられてるみたいだ……!」
ツムギの胸の奥で、二つの響きがひどく乱れた。
(……これ……もしかして、人を犠牲にし続けてきた“罪”そのものじゃなく、街がこれまで抱えてきた『痛み』が、底に溜まり、膿みつづけて……名喰いの“心臓”になったんじゃ……!)
谷の奥がさらに開き、
沈んでいた街の影の本体が、ようやくはっきりと形を帯びる。
──それは、人でも獣でも、塔でもなかった。
忘れられた残骸。まるで地図をひっくり返したような、現実感のない路地、家の角、名札の欠片──
すべてが汚泥化し、蠢く“黒い心臓”となって、底に横たわっている。
ナドが震える声で言った。
「これが……“名喰いの塔”の根源……。犠牲となった街々の、痛みと名の残滓が集まり固まった、負の街そのものの心臓……!」
名喰いの声が重く響く。
〈街は痛むほど強くなる〉
〈強くなれば、選別は容易い〉
〈犠牲を減らすための犠牲──それが“最善の街”〉
「違う!!」
ツムギの声が、谷の奥へと奔った。
「痛みを受けたから強くなるんじゃない!
痛みを“共有できるように結ぶ”から、街は本当に前へ行けるんだ!!誰か一人を切り捨てて強くなる街なんて……街じゃない!!」
黒い心臓が波打ち、過去の汚泥が一斉にざわめく。
まるで、沈められた街が混乱し、あがいているようだった。
コハクが震える声で叫ぶ。
「ツムギ! さっきあんたが言った“繋ぐ”って言葉……あれ、街じゅうの拍が反応してた!今の塔や、街の耳は、ずっと『声』を聴こうとしてたんだよ!沈んだ街と今を、結ぶ縁を探してる!」
ヴェンが歯を食いしばる。
「底に沈んじまった街も、元は誰かの暮らし……そこに、街の拍はあったんだよな……」
(──そうだ)
ツムギは震える拳を握りこんだ。
忘れられた名。
切り捨てられた痛み。
切り捨てた負い目。
沈んだ街の影──
すべてが、声を持たないまま“底”へ閉じ込められた。
(そこに命は、確かにあった……だったら……底の街も、今の街も──どちらも切り捨てずに前へ進む道を、結べるかもしれない……!)
ツムギの呼吸が強くなる。
輪が、彼の足元で小さく脈を打った。
ナドが杖を鳴らす。
「最後だ、ツムギ!“どちらも切らない街”の言葉を!根律には理解できぬ、“犠牲を選ばぬ声”を、置いてみろ!!」
谷底の黒い心臓が、ツムギの言葉を、拒絶するようにか、焦がれて待つようにか、動きを止めた。
ツムギは目を閉じ、
自分たちの街のざわめき、
底に沈んだ街の残響──
そのどちらも胸にかき集めて、吐き出すように一言を落とした。
「──“誰の犠牲も許さない、遠い道のりこそ、本当の一歩だ”!」
その声が落ちた瞬間。
黒い谷が、悲鳴のように揺れた。
沈んだ街路の影が持ち上がり、
汚泥の心臓が初めて“外へ流れ”始める。
名喰いの声が、怒りとも戸惑いともつかない震えを帯びた。
〈……塔の子──おまえは〉
〈……心臓を結ぶ……?〉
ツムギの足元の輪がひときわ強く輝き、
黒い谷の影へ向けて“縁”が伸びた。
捨てられた過去のすべてへの救いは、長い死の時を経て、「小さな命」から発せられた。




