第13話 黒い谷に立つ声
塔の底に開いた裂け目──
そこには、古街が積もっていた。
家々の輪郭。
折れた柱。
名を奪われた者が暮らしていた、かつての街路の途切れ。
どれも色を失い、そこにあるだけの、死んだ骨組みのように沈んでいる。
「……これが……」
コハクの声がかすれる。「名を奪われた街の残骸……。本当に、あったんだ……」
谷の奥から、風のような低いざわめきが聞こえた。
まるで記憶の残響のように、この国──『クラン連邦』の地は、一度“終わっていること”を知らせてくる。
ヴェンが銀糸を握りしめ、呟く。
「……街が喰われた痕ってのは、こうなるのか……生きた人間だけじゃねぇ……“生活の形”まで失われてしまう……」
黒い谷は、街という大勢の人の、死後の姿だった。
建物の影が折り重なり、それぞれの名も、場所も、何も持つことが許されなくなり、ただ沈んでいった層。
ツムギはぐっと口を閉じた。
揺れるような郷愁が、胸の奥で、冷たく続いている。
……あるいはそれは、この街の“声”だったのかもしれない。
(名喰いに、すべてを奪われたわけじゃない。でも……残されたものは、ぜんぶ底に積もっていく……)
封印層の奥から、重い言葉が落ちてくる。
〈犠牲なくして、街は立たん〉
〈手を加え続けなければ──“最善”の街とは成らん〉
その声は優しさに似ていて、
だからこそ冷たかった。
「……違う」
ツムギは震える膝で前に出た。
「犠牲を……“選んだ側の都合”だけで正しいって言うのは……それは人々が集える街じゃない……」
黒い谷の空気が、静かに揺れる。
コハクがツムギに手を伸ばそうとしたが──
ナドは首を振った。
「行け、ツムギ。根律は、“今”を選んだおまえの声に反応した。この場所に、儂らの街『クラン』の代わりに声を置ける、唯一の機会かもしれん」
ヴェンも銀糸を構え直したが、落ち着いて言う。
「気負うなよ。お前が、俺たち〈響徒〉に告げた言葉だけでも、充分な“代わり”になる」
(……後ろに、誰かがいる……)
その確認だけで、ツムギの呼吸はひとつ安定した。
皆で作った輪の光は、弱まりかけている。
街の罪を返す呼びかけは届いたが、まだ根律を退けるには足りない。
谷の奥で、何かが動いた。
生物──ではない。
おそらく、“人の執念”そのもの。
自身が傷つくことも厭わず、何かにとらわれ、それを望み、やがては破綻しても止まらない──
“名喰い”の本性は、人によって生まれたものではなかったか。
〈今を守るならば、過去の街を“切る”声を寄こせ〉
〈鍵よ。どちらを残す〉
ツムギの胸が焼けるように熱くなる。
二つの律が激しくぶつかり、視界が揺れた。
(過去を……捨てる?“犠牲を選ぶのは街じゃない”って、さっき言ったのに……)
ツムギは苦しげに指をにぎり込んだ。
その時──
コハクが輪の外から叫ぶ。
「ツムギ!!“どちらかを選ぶ”必要なんて、最初からないんだよ!」
少年が振り返る。
コハクの目は真っ赤で、それでも強かった。
「名喰いも、昔の塔も、“選別したくてたまらない”だけ!その方が、効率よく──繁栄するのに、都合よく思えるから!!でもね……私たちの街は、心は、そんな風にできてない!!」
ヴェンが息を吐きながら笑う。
「そうだ。切るか残すかじゃねぇ。“どうやって持ち上げるか”考えろ。本当の繁栄──幸福ってやつには、自由は絶対に必要なんだ。街は、それを守るために、誰の声も見捨てずにやってきたんだろ?」
ナドが杖を鳴らし、谷の底を睨んだ。
「封印層は、“良否”しか知らん。本来──名とは“繋ぐもの”じゃ。切るのではなく、“結び直す言葉”を置け。ツムギ、おまえだけがそれを届けられる」
谷の闇が波打つ。
〈繋ぐ?〉
〈犠牲をなくして?〉
〈街は弱くなる〉
〈このままではまた──〉
ツムギは一歩、輪の中心に戻った。
喉が震えているのに、不思議と怖くはなかった。
(切り捨てるんじゃない……。時間は、歴史はちゃんと前に進んでる。僕はただ……街を後戻りさせたくないだけだ……)
谷底から吹き上がる冷気が、ツムギの声を待つ。
胸に手を当て、息を吸う。
ツムギは封印層へ向けて、ゆっくりと口を開いた。
「──“忘れていい傷なんて、ひとつもない”」
谷の奥で、心が止まる。
「“でも、抱えたままじゃ歩けない。
だから繋ぐ。過去ごと、今へ!”」
その言葉が落ちた瞬間──
黒い谷の層がわずかに震え、積もっていた残骸が、温もりを得たように揺れ始めた。
沈んだ街から、低い、怒りとも悲鳴ともつかない音が響く。
〈結ぶ声……〉
〈それは……塔の……〉
〈……おまえ……何を……〉
ツムギの足元の輪が、強く光った。
名喰いの“心”が、ようやく動き出した。




