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鳴らない鈴  作者: 久賀 広一
1章 音核盗難
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第2話 音の抜き身


 静けさにも種類がある。

 眠る前の静けさ、遠大な風景の静けさ、そして――落とされた(・・・・・)静けさ。

 今は三つ目だ、とツムギは直感していた。


 記録館の入口では、輪が呼吸を保っている。人々は「一人一言」で紐綴じに思いを通し、結び目が増えるたび、散っていた拍がわずかにそろう。

 ナドは短く指示を飛ばし、無駄な言葉は足さない。理由などにかける時間はない。いまは手を動かす時だ。


 その空気を裂くように、足音が駆け込んできた。鐘塔しょうとうの整備士コハクだ。油の匂いと、金具のきらめく光を連れている。

「——来て」  

 声は薄いが、目が急を告げる。ツムギは綴じ束を半分、うなずいたナドに渡す。師は歳のせいもあり、軽敏に動けない──先行は自分だ。


 外へ出ると、祭りの飾り紐が風に揺れていた。揺れるのに、鳴らない。太鼓は皮を打つたび空気を押すが、合図と同じで形だけ通り過ぎていく。

 コハクは歩を緩めず言った。

「塔の点検窓、外れてた。内側から」

「……傷は?」

「なし。やり口が丁寧。鍵も壊れてない」


 雑ではない。ただ単純な欲望に呑まれた盗みではない。機構を扱える誰かの仕事だ――ツムギは息を整え、その仮説だけ心の奥に置いた。


 鐘塔の根元は、無音の喧噪で満ちていた。衛兵が身振りで人波をさばく。コハクが腕章を見せると、急かされるように道が開く。

──あわてて階段を登り、たどり着いた塔の胸、採光窓は閉じられていた。しかし、内奥の小さな点検窓は口を開け、格子に貼られた封印の紙は、きれいに剝がされている。

「外からこじってない。合鍵か、内側の人間、あるいは同等の腕前」

 コハクが紙片を窓枠にすべらせ、引っかかりのなさを確かめる。


 ツムギは空洞──『心座』を覗いた。あるべきもの――音核。街の心臓。そこに残っているのは、輪郭の温度だけ。取り外されたばかりの虚しい熱は、まだ壁に残っている。

 腕に抱えてきた綴じ束の中で、結び目がいっせいにざわつくのを感じた。


 ──ナドが階段下まで追いついた。彼は周囲を一瞥し、皆に落ち着くよう手で合図し、点検窓まで登ってくる。…無用に煽らぬよう、低い声で言った。

「…音核が抜かれたか」

 その一言だけが、人々のさまよっていた視線に落ちた。

 衛兵の唇が形だけで「予備は」と動く。

 コハクが首を振る。

「心臓はひとつ。予備は“予備”にならない。……仮なら作れる。持ちは悪いが」


 不安の波が広がる前に、ナドは続けた。

「ここは私とコハクで当面を見る。ツムギ、綴じ束を館へ戻せ。人を変えて、輪は崩すな。——一人一言だ。その数が多いほど、拍は安定する」

 ひと呼吸置いて、師はさらに仮のたねを置く。

「…じ紐は、あとで『合わせ』に使う基準になるからな」


 ただの人々の慰めではない。輪から得られた声は、小さな装置として働き、後でコハクが組む“仮の心臓”の基点にもなる。ツムギはうなずき、束を抱え直した。


 ──その時、塔の影が風もないのに細く揺れた。

 錯覚かもしれない。けれど、胸骨の内側で鳴らないはずの鈴が、短く鳴る。何かが“抜けた”余韻だ。

 コハクが「大丈夫」と目で伝え、ナドも同じようにうながしてくる。ツムギはふり返ると、記録館へ走った。


 輪は息を続けていた。人々の顔つきは、来館した時より落ち着いている。

 綴じ目が増え、拍が人から人へ渡っているのだ。ツムギは手を上げ、必要最小限だけ告げる。

「塔から心臓が抜かれました。でも拍は戻せます。だから——一人一言」


 少年が紐を差し出す。相手の少女の指が冷たい。ツムギは小さく笑い、息の位置を胸に示す。

「怖さは、声にすると軽くなる。…ほら。指が温かくなってる」

 綴じ目がほのかに光り、束に収まる。──重さが増す。

 これは、街の重さだ。ツムギはその重みを確かに受け、次の手を取った。


 夜はゆっくり傾く。音はまだ戻らない。

 だが、音になる前の準備だけは静かに進みつつある。誰かが火を守り、誰かが手を取り合う。そのリズムに、ツムギの通る声が自然に重なる。

…自分の声だけがはっきりと、輪郭を増す理由は、彼自身も知らない――だが、それは一晩のうちにより明瞭になってゆく。そんな予感がする。


 鐘塔ではコハクが目盛りを読み、ナドが風の向きを何度も確かめている。仮の心臓を作る、その準備のために。輪で集めた基準の拍を、合わせに使うために。


 塔の胸の空洞は、誰かの丁寧な手口の跡だけを抱え、冷たい輪郭のまま夜気を溜めていた。





 

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