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鳴らない鈴  作者: 久賀 広一
2章 名を呼ぶ底
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第9話 縁の魔物


 裂け目の闇が、吸い込んだ息を吐き出すように脈打った。


 次の瞬間──

 “形”が、出てきた。


 深紅の糸でもなく、音柱からのような霧でもない。

 人の形を真似た“ふち”──ただの輪郭だけが、ゆっくりと揺れながら塔の床に触れた。


 触れた場所の石が、ひとつ鳴った。


 コン、と乾いた音。

 それだけで、周囲の空気が恐ろしく歪む。


「……!ツムギ、後退さがれ!!」

 コハクが叫び、輪の外から伸ばした手が震えている。


 けれどツムギは動けなかった。

 あれは、人ではない。

 名を喰う塔の“残滓”が、自分の形を持とうとして生まれた──

 ただの『空洞』だ。


 だが、その“空洞”が、何故かひどく馴染んで見えた。

 自分がいくらか、向こうに捉えられたのかもしれない。まるでツムギ自身の影が、遅れて追いついてきたかのように、違和感が消えてゆく。


 〈鍵よ〉

 〈戻れ〉


 応える必要もない。

 “形”は、もはやみずからツムギに 重なろう としていた。


 ——その瞬間。


 ヴェンの銀糸が、床を斬り裂くように走った。


「下がれっ!!」


 銀の線が輪郭をえぐり取る。

 空洞の腕は音もなく切れ、ぼたりと落ちる前に──すぐ元の形に戻った。


「……斬れねぇのか、これ」

 ヴェンが息を吐く。

 その禍々しさに、額には汗が滲んでいた。


 ナドが怒鳴る。

「触れるな、ヴェン! お前も捉えられるぞ!!“形”は実体を持つまねをしておるだけで、切ったとしても、欠けたことにはならん。古きの力は、声より命に近い。我らの『拍』の比ではないぞ!」


 空洞が、ツムギの方へ首を傾けた。

 首の形をしているだけの、飢餓の線。


 ツムギの胸の奥で、ふたつの律がまた擦れた。


(……来る。

 今度はただの“下地したじ”として、僕を組み込むつもりだ)


 自分の足下にある輪が、チリ、と鳴った。

 ナドが置いた札がひとつ破れ、一瞬にして蒸発する。


 塔が揺れる。

 反響が天井の奥を走る。


 〈名を開けろ〉

 〈こちらへ〉


 ツムギは歯を食いしばり、輪の中心から動かなかった。


(……来させない。

 僕は、封じられた過去には同調しない)


 胸に手を当て、呼吸を整える。

 骨の裏で、封印層の声が低く唸る。


 そこへ──


 コハクが輪へ踏み込み、ツムギの腕を掴んだ。


「ツムギ! 一人で立つな!輪に守られていれば、“鍵”だとしても一人の存在じゃない──輪の言葉として、名を守れ!」


 コハクの声で、ツムギの視界が戻った。


 輪の外で、ヴェンも銀糸を構え直している。

 その目は敵意ではなく、決意の色に満ちていた。


「……塔の子。おまえを取らせる気はねぇ。塔にも、“ひもじ”にも、まだ聞きたいことがある」


 ナドが杖を鳴らす。


「“名喰い”は、まだ鍵一つしか見えておらん。ならば逆に──“鍵を割って”見せろ。ヤツの時代には、数多あまたの人の言葉を聴く、我ら紐綴じの声──なかったはずだ。三人の音を、名と存在に重ねろ!」


 空洞が動く。

 床に落ちた黒い影を踏みつけるように、じり、と輪へにじんでいく。


 床石が、名を忘れたように色を失ってゆく。


 ツムギは大きく息を吸った。

 喉の奥の揺らぎを押さえ込み、一言──

 ただ一言を、選ぶ。


(これは……“僕の名”じゃない。

 街の名でもない。

 塔の名でもない。

 ここにいる三人で、返す言葉……)


 空洞が輪へ触れた。


 コハクが叫んだ。

「ツムギ!!」

 ヴェンの銀糸が、輪の強化へと鳴る。

「お前の声は響く──まかせるぞ!」


 ナドが杖で床を叩く。


 そして──ツムギは言葉を落とした。


「──皆が命がけで築いてきたものは──“決して渡さない”」


 言った瞬間、輪が爆ぜた。


 白い火花が床を走り、空洞の形を、光が打ち消す。

 深紅の導糸が砕け、裂け目がふっと縮む。


 一拍だけ、塔の底に沈黙が戻る。


 だが──その静寂の直後。


 塔の向こう(・・・)で、巨大な何かが“怒り”を見せたように震えた。


 封印層のさらに下から、岩盤を軋ませる低い咆哮が響く。


 〈……鍵を割る、だと〉

 〈ならば、得られる力は弱くとも、ふちから喰う〉


 闇の底から、今度は輪郭ではないものが動いた。


 塔の根が。


 過去を垣間見たツムギは、震える膝を押さえ、顔を上げた。


(……呪いだ。もはや、名喰いそのものか、人の心か、それが分からないほど、命を喰わされてる(・・・・・・)。一体、何があった──)


その顔から、表情が消えた。







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