第9話 縁の魔物
裂け目の闇が、吸い込んだ息を吐き出すように脈打った。
次の瞬間──
“形”が、出てきた。
深紅の糸でもなく、音柱からのような霧でもない。
人の形を真似た“縁”──ただの輪郭だけが、ゆっくりと揺れながら塔の床に触れた。
触れた場所の石が、ひとつ鳴った。
コン、と乾いた音。
それだけで、周囲の空気が恐ろしく歪む。
「……!ツムギ、後退れ!!」
コハクが叫び、輪の外から伸ばした手が震えている。
けれどツムギは動けなかった。
あれは、人ではない。
名を喰う塔の“残滓”が、自分の形を持とうとして生まれた──
ただの『空洞』だ。
だが、その“空洞”が、何故かひどく馴染んで見えた。
自分がいくらか、向こうに捉えられたのかもしれない。まるでツムギ自身の影が、遅れて追いついてきたかのように、違和感が消えてゆく。
〈鍵よ〉
〈戻れ〉
応える必要もない。
“形”は、もはや自らツムギに 重なろう としていた。
——その瞬間。
ヴェンの銀糸が、床を斬り裂くように走った。
「下がれっ!!」
銀の線が輪郭をえぐり取る。
空洞の腕は音もなく切れ、ぼたりと落ちる前に──すぐ元の形に戻った。
「……斬れねぇのか、これ」
ヴェンが息を吐く。
その禍々しさに、額には汗が滲んでいた。
ナドが怒鳴る。
「触れるな、ヴェン! お前も捉えられるぞ!!“形”は実体を持つまねをしておるだけで、切ったとしても、欠けたことにはならん。古き名の力は、声より命に近い。我らの『拍』の比ではないぞ!」
空洞が、ツムギの方へ首を傾けた。
首の形をしているだけの、飢餓の線。
ツムギの胸の奥で、ふたつの律がまた擦れた。
(……来る。
今度はただの“下地”として、僕を組み込むつもりだ)
自分の足下にある輪が、チリ、と鳴った。
ナドが置いた札がひとつ破れ、一瞬にして蒸発する。
塔が揺れる。
反響が天井の奥を走る。
〈名を開けろ〉
〈こちらへ〉
ツムギは歯を食いしばり、輪の中心から動かなかった。
(……来させない。
僕は、封じられた過去には同調しない)
胸に手を当て、呼吸を整える。
骨の裏で、封印層の声が低く唸る。
そこへ──
コハクが輪へ踏み込み、ツムギの腕を掴んだ。
「ツムギ! 一人で立つな!輪に守られていれば、“鍵”だとしても一人の存在じゃない──輪の言葉として、名を守れ!」
コハクの声で、ツムギの視界が戻った。
輪の外で、ヴェンも銀糸を構え直している。
その目は敵意ではなく、決意の色に満ちていた。
「……塔の子。おまえを取らせる気はねぇ。塔にも、“紐綴じ”にも、まだ聞きたいことがある」
ナドが杖を鳴らす。
「“名喰い”は、まだ鍵一つしか見えておらん。ならば逆に──“鍵を割って”見せろ。ヤツの時代には、数多の人の言葉を聴く、我ら紐綴じの声──なかったはずだ。三人の音を、名と存在に重ねろ!」
空洞が動く。
床に落ちた黒い影を踏みつけるように、じり、と輪へ滲んでいく。
床石が、名を忘れたように色を失ってゆく。
ツムギは大きく息を吸った。
喉の奥の揺らぎを押さえ込み、一言──
ただ一言を、選ぶ。
(これは……“僕の名”じゃない。
街の名でもない。
塔の名でもない。
ここにいる三人で、返す言葉……)
空洞が輪へ触れた。
コハクが叫んだ。
「ツムギ!!」
ヴェンの銀糸が、輪の強化へと鳴る。
「お前の声は響く──まかせるぞ!」
ナドが杖で床を叩く。
そして──ツムギは言葉を落とした。
「──皆が命がけで築いてきたものは──“決して渡さない”」
言った瞬間、輪が爆ぜた。
白い火花が床を走り、空洞の形を、光が打ち消す。
深紅の導糸が砕け、裂け目がふっと縮む。
一拍だけ、塔の底に沈黙が戻る。
だが──その静寂の直後。
塔の向こうで、巨大な何かが“怒り”を見せたように震えた。
封印層のさらに下から、岩盤を軋ませる低い咆哮が響く。
〈……鍵を割る、だと〉
〈ならば、得られる力は弱くとも、縁から喰う〉
闇の底から、今度は輪郭ではないものが動いた。
塔の根が。
過去を垣間見たツムギは、震える膝を押さえ、顔を上げた。
(……呪いだ。もはや、名喰いそのものか、人の心か、それが分からないほど、命を喰わされてる。一体、何があった──)
その顔から、表情が消えた。




