第8話 過去からの手
塔の底が揺れた。
輪の中央に立つツムギの足下で、空気がきゅっと冷え、裂け目の奥から、息を吸うような戦慄きが返ってきた。
〈──名を。鍵を〉
ツムギが放った一言は、確かに届いた。
だが返ってきたのは、呼び声ではなく──“構造そのものの変化”だった。
「……反応が変わった」
ナドが息を詰めた声で言う。
輪の外で構えていたヴェンの銀糸が、突然、床に張りつくように沈んだ。
まるで、下から強い力で引っ張られているように。
「おい……糸が、勝手に沈んでいく……」
ヴェンが糸を引き上げようとするが、びくともしない。
「封印層が、糸の導管への“結び方”に干渉してる……?」
コハクは測音石を近づけた。
針は動かない。
だが石の奥から、かすかな“呼吸”が感じられる。
「音じゃない……塔の心臓とも違う……
これ、人の……“息”?」
ナドは札を取り出し、輪の外へ置いた。
しかし、札は燃えなかった。
代わりに、ゆっくりと“泡立ち”始めた。
「……燃えん。
『預かって戻す』という札の仕組みを、封印層が否定しておる……」
ツムギは自分の胸に手を当てた。
喉の奥で、“主律の声”が望もうとしている何かが感じられる。
自分の拍と。
そしてもう一つ──どこかで聞いたことのあるような、曖昧な律。
〈……返せ〉
〈失くした名を……〉
視界の端が揺らぎ、ツムギはふっと息を呑んだ。
輪の外側に、古い塔の影が立っていた。
一瞬だが、はっきりと。
今のものとはまるで違う、それは“檻”のように細い柱が連なり、その中心に、人影が座っている。
──呼吸、していない。
拍もない。
けれど、その胸元から、薄い光が上へ吸いあげられていく。
おそらく、名だ。そして、それに纏わる力。まるでそれが供物のように、塔の心臓──名喰いの律──へ差し出されている。
「ツムギ!」
コハクが肩を掴んだ。
「いま……何を見てた……!?」
「……昔の塔……かもしれない」
ツムギは震える声で答えた。
「人を使って……塔が名を集めて……
“器に満たしていた”……そんな感じ」
ヴェンの銀糸が、はじかれたように鳴って、浮き上がった。
だがそれは、ヴェンの制御ではなかった。
「……塔が、糸を結ぼうとしてる」
ヴェンが唇を噛む。
「おまえを……“中心”にして、導管を結び直そうとしてる」
ナドの札がひときわ大きく泡立ち、弾けた。
「これは駄目だ、輪が保たん!ツムギ、意識を散らすな!!封印層は、すでに“呼んで”おらん……“組み替え”にかかっとる!」
ツムギは、喉の奥に集まる奇妙な響きを必死に抑えた。
〈塔は名から成る〉
〈名は塔へ戻れ〉
〈鍵よ──戻せ〉
(……戻らない。僕は……器じゃない。塔でも、封印層でもない。僕個人として存在し、“返す側”だ)
ツムギの胸で、二つの律がぶつかり合った瞬間、裂け目の奥から深い“底響き”が起こった。
──塔そのものの構造が、古い塔へ引き戻されようとする。
ナドが杖を強く握りしめる。
「……来るぞ。次は声ではない。“形”が来る」
裂け目の闇が、まるで息を吐く前のように膨らんだ。
ツムギの身体に、見えない圧が迫る。
言葉も、拍もない。
ただ、“名を喰うものの手”が伸びてきた。




