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鳴らない鈴  作者: 久賀 広一
2章 名を呼ぶ底
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第6話 鍵のいる場所


 記録館の奥の小部屋は、祭りの夜に使う予備の預かり台だった。

 今は机がひとつ、その端にツムギが座っている。

 指先にはまだ、音柱の霧に触れた冷たさが残っていた。


 〈鍵〉

 〈名を寄こせ〉


 さっきまで広場で響いていた、あの声が、骨の内側でまだ薄く揺れている。


「……手、冷たいままね」

 コハクが湯気の立つ茶を置き、ツムギの手の甲を軽くつついた。

「冷たいっていうか、誰かの手にすり替わってる感じ。……気持ち悪い」

「ぜんぜん嬉しくない感覚ね、それ」


 そこへ、ナドが入ってきた。扉の外では下兵にあたる〈浅響〉の響衛が控えている。


「広場は封鎖した。音柱は黙っとるが……ひびの奥に、やはり色がある」

 ナドはそう言って、ツムギの前に腰を下ろした。

「ツムギ。音柱で、何を聞いた」


 少年は喉を押さえた。

「“紐綴じの名は偽物、本当の名は地下に眠ってる”って。それと……“鍵”“おまえの名を寄こせ”」


 ナドの目が細くなる。

「封印層の《主律》は、音ではなく“名”を喰う心臓だ。塔ができる前、この土地を縛っておった古い仕組み。わしらが輪を作り、ひもと札を使って“預かって返す”形に変えたが、根っこそのものは消えとらん」


「じゃあ、塔の拍を街に返したときに、そこへ届いちゃった……?」

「おまえの透声が、だろうな」

 ナドはあっさり言う。

「音のないところへ橋を渡す喉は、便利でもあり、最高の目印でもある。あっちから見れば、“一番ここに通いやすい場所”がおまえだった」


 ツムギは唇を噛んだ。

 責められているわけではない。それでも胸がざわつく。


「……僕のせいで、封印が目を覚ましたのなら」

「せい、じゃない」

 ナドは首を振った。

「塔が街を聴き返すように変わった時点で、いつかは触れた。たまたまそれを早める“橋”を持っていたおまえが、ここにいた。ただそれだけだ」


 ただそれだけ。

 だけど、その「だけ」が、世界の底に穴を──前触れもなくあけるには、十分だった。


 ツムギは机の上の古い札に目を落とした。

 〈午前三刻まで——〉という書きなれた文字がある。

 祭りの夜、名と思いを預かって、火で空へ返すための札。


「……こういった技術的なものじゃなくて、“もっと根っこの方”を触ってる……」

 コハクが慎重な声で言う。

「拍じゃなくて、“名”で……」

「だから厄介なんだ」

 ナドの声は荒い。

「街じゅうの“本当の名”を、自分のもとへ引き戻そうとする。塔の鼓動より古く、強く、融通が利かん」


 胸の奥で、小さな鈴が鳴った。

 〈来い〉という響きは、さっきより少し形が変わっている。


 〈ここで喰われるか〉

 〈おまえが決めろ〉


 命令でも誘惑でもない。

 ただ、「選べ」と告げるような声だった。


「……師匠」

 ツムギは顔を上げた。

「呼ばれて従うくらいなら、先にこっちから返事をしたいです」

「返事?」

「輪と同じです。向こうの言い分だけが押し寄せてくるから、飲まれる。でも最初の一言をこっちが置けば、お互いの“間”の形が変わる。鍵にされるのに抗えないなら、自分で鍵の形を決めたい」


 コハクが目を丸くした。

「……塔の子にしては、ずいぶん乱暴なこと言うわね」

 しかし、その声にはわずかな期待も混じっていた。


 ナドはじっとツムギを見つめ、それから短く笑った。

「乱暴で良いかもしれん。封印層の裂け目の前に、輪をひとつ据える。塔の紐束ひもたばでも、響徒の銀糸でもない、“誰の側にも寄りきらん言葉の輪”をだ。……おまえはその真ん中で、一言だけ返せ」


「──一言だけ?」

「長々しゃべるのは年寄りの役目じゃ。

 世界を揺らすには、一言で足りる」


 そのとき、扉が軽く叩かれた。

 〈浅響〉の隊長が顔をのぞかせる。

「ナド導師。……響徒の代表を名乗る者が、会談を求めています。“塔の下で起きていることに、自分たちも関わっていいはずだ”と」


 ツムギとコハクは顔を見合わせた。

「ヴェンだな」

 ナドは短くうなずいた。

「通せ。輪を作る話なら……あやつらにも聞かせておく必要がある」


 ツムギの喉が、かすかに熱を帯びた。

 封印層からの声と、これから向き合う声。

 どちらも、避けては通れない。


 ──塔の根の前で交わす「“鍵”の一言」は、簡単なものだ。だが単純だからこそ強い。

 少年は立ち上がった。




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