第6話 鍵のいる場所
記録館の奥の小部屋は、祭りの夜に使う予備の預かり台だった。
今は机がひとつ、その端にツムギが座っている。
指先にはまだ、音柱の霧に触れた冷たさが残っていた。
〈鍵〉
〈名を寄こせ〉
さっきまで広場で響いていた、あの声が、骨の内側でまだ薄く揺れている。
「……手、冷たいままね」
コハクが湯気の立つ茶を置き、ツムギの手の甲を軽くつついた。
「冷たいっていうか、誰かの手にすり替わってる感じ。……気持ち悪い」
「ぜんぜん嬉しくない感覚ね、それ」
そこへ、ナドが入ってきた。扉の外では下兵にあたる〈浅響〉の響衛が控えている。
「広場は封鎖した。音柱は黙っとるが……ひびの奥に、やはり色がある」
ナドはそう言って、ツムギの前に腰を下ろした。
「ツムギ。音柱で、何を聞いた」
少年は喉を押さえた。
「“紐綴じの名は偽物、本当の名は地下に眠ってる”って。それと……“鍵”“おまえの名を寄こせ”」
ナドの目が細くなる。
「封印層の《主律》は、音ではなく“名”を喰う心臓だ。塔ができる前、この土地を縛っておった古い仕組み。わしらが輪を作り、綴じ紐と札を使って“預かって返す”形に変えたが、根っこそのものは消えとらん」
「じゃあ、塔の拍を街に返したときに、そこへ届いちゃった……?」
「おまえの透声が、だろうな」
ナドはあっさり言う。
「音のないところへ橋を渡す喉は、便利でもあり、最高の目印でもある。あっちから見れば、“一番ここに通いやすい場所”がおまえだった」
ツムギは唇を噛んだ。
責められているわけではない。それでも胸がざわつく。
「……僕のせいで、封印が目を覚ましたのなら」
「せい、じゃない」
ナドは首を振った。
「塔が街を聴き返すように変わった時点で、いつかは触れた。たまたまそれを早める“橋”を持っていたおまえが、ここにいた。ただそれだけだ」
ただそれだけ。
だけど、その「だけ」が、世界の底に穴を──前触れもなくあけるには、十分だった。
ツムギは机の上の古い札に目を落とした。
〈午前三刻まで——〉という書きなれた文字がある。
祭りの夜、名と思いを預かって、火で空へ返すための札。
「……こういった技術的なものじゃなくて、“もっと根っこの方”を触ってる……」
コハクが慎重な声で言う。
「拍じゃなくて、“名”で……」
「だから厄介なんだ」
ナドの声は荒い。
「街じゅうの“本当の名”を、自分の下へ引き戻そうとする。塔の鼓動より古く、強く、融通が利かん」
胸の奥で、小さな鈴が鳴った。
〈来い〉という響きは、さっきより少し形が変わっている。
〈ここで喰われるか〉
〈おまえが決めろ〉
命令でも誘惑でもない。
ただ、「選べ」と告げるような声だった。
「……師匠」
ツムギは顔を上げた。
「呼ばれて従うくらいなら、先にこっちから返事をしたいです」
「返事?」
「輪と同じです。向こうの言い分だけが押し寄せてくるから、飲まれる。でも最初の一言をこっちが置けば、お互いの“間”の形が変わる。鍵にされるのに抗えないなら、自分で鍵の形を決めたい」
コハクが目を丸くした。
「……塔の子にしては、ずいぶん乱暴なこと言うわね」
しかし、その声にはわずかな期待も混じっていた。
ナドはじっとツムギを見つめ、それから短く笑った。
「乱暴で良いかもしれん。封印層の裂け目の前に、輪をひとつ据える。塔の紐束でも、響徒の銀糸でもない、“誰の側にも寄りきらん言葉の輪”をだ。……おまえはその真ん中で、一言だけ返せ」
「──一言だけ?」
「長々しゃべるのは年寄りの役目じゃ。
世界を揺らすには、一言で足りる」
そのとき、扉が軽く叩かれた。
〈浅響〉の隊長が顔をのぞかせる。
「ナド導師。……響徒の代表を名乗る者が、会談を求めています。“塔の下で起きていることに、自分たちも関わっていいはずだ”と」
ツムギとコハクは顔を見合わせた。
「ヴェンだな」
ナドは短くうなずいた。
「通せ。輪を作る話なら……あやつらにも聞かせておく必要がある」
ツムギの喉が、かすかに熱を帯びた。
封印層からの声と、これから向き合う声。
どちらも、避けては通れない。
──塔の根の前で交わす「“鍵”の一言」は、簡単なものだ。だが単純だからこそ強い。
少年は立ち上がった。




