第5話 音柱の裂け目
塔を出た瞬間、ツムギは胸の奥で“ふたつの律”がこすれ合うような違和感を覚えた。
朝の光は穏やかだが、風の底に細いざわめきが混じっている。街路のどこかで、誰かが驚きの声を上げ、それがすぐ喧騒へ紛れた。
広場へ出ると、皆が同じ一点──塔の前庭に立つ〈音柱〉を見つめていた。
昨夜まで静かだった記録の石筒が、薄い霧をまとって微弱に震えている。
コハクがツムギの前に出て、測音石を掲げた。
針が跳ね、震え、そして──止まった。
「位置が……ずれてる?」
少女の呟きは、困惑というより“理解不能”に近かった。
音柱の周囲では響衛たちが円を組み、人々を外へ誘導している。
表情に焦りはないが、誰もが直感していた。
これは昨夜の導糸の乱れとは別物だ。
ナドがゆっくりと歩み出て、杖を軽く石へ触れさせた。
その瞬間、広場全体がひと息ぶんだけ“凪いだ”ように見えた。
そして──
〈名を、返せ〉
肚に直接とどくような音だった。
街路の空気そのものが、名前のような響きを一度、かすかに震わせた。
「……師匠。封印層の“声”と同じ……」
「いや、これは音柱の“呼応”だ。塔の下で起きていることに、古い街の記憶が反射している。隠された過去としても、どこかに意思は遺っている」
ナドの声は落ち着いていたが、杖を握る手は白かった。
ツムギが音柱へ近づくと、石筒の表面に、昨日まではなかった深い裂け目が走っているのが見えた。
そこから漏れ出す霧は深紅──封印層の導糸と同じ色。
「塔だけじゃない。街の“記憶”まで、侵されはじめてる……」
コハクの声が震える。
ツムギは裂け目へそっと手を伸ばしかけ、すぐに止めた。
“声”がしたからだ。
〈紐綴じに綴られた名は、偽り〉
〈本当の名は、地下に眠っている〉
胸がざわつく。
先ほど、封印層で触れられた足首の感覚が、わずかに疼いた。
ナドが言う。
「……封印層の“主律”が、街を通して道を探っている。皆で作り上げ、柔軟さに富む塔の拍とは違って、恣意的で古く強い、“名を持った律”だ。道がつながれば、すべてが別の存在に上書きされる」
その時──
音柱の裂け目から、砂混じりの風ような音がした。
深紅の霧がうねり、広場の石畳へ薄く広がる。
まるで“探すように”。
「ツムギ、下がって!」
コハクが手を掴む。
だがツムギは動けなかった。霧が肩に触れた瞬間、胸の裏で“誰かの心臓”が打ったように感じた。
〈鍵〉
〈おまえの名を寄こせ〉
ツムギは息を呑む。
ナドは杖を鳴らし、響衛に向かって怒声に近い声を放った。
「広場を封鎖しろ! 音柱は塔と同じ状態だ、触れるな!」
響衛たちが人の波を押し返し、広場は徐々に空き始めた。
だが、音柱の裂け目は逆に広がり、霧は塔の方へ伸びはじめる。
「……封印層と、街の記憶が引き合ってる」
コハクが震える声で言う。
「拍じゃなくて、“名”で……」
ツムギはたまらず叫んだ。
「師匠、これ……塔の拍よりも古い、もっと根元の──」
「そうだ。“根律”だ。」
ナドはツムギを鋭く見つめ、静かに告げた。
「封印層の主律が、街の隠された記憶と、塔の響路を“名の流れ”でつなごうとしている。
このままでは、塔の心臓は上書きされる」
ツムギの胸が強く鳴った。
塔の拍と街の息が混線し、その奥で、もっと深い“呼び声”が蠢いている。
〈鍵よ〉
〈おまえが開けるのだ〉
その瞬間、音柱の裂け目がひときわ明るく脈打った。
ツムギは振り返り、ナドとコハクを見た。
「……師匠、僕……何かにつながれている気がする。封印層の“誰か”に呼ばれてる」
ナドは目を細めた。
「ツムギ。皮肉にも、おまえの透声が、“封印の名”に届いてしまったのかもしれん。だが絶対に触れるな」
しかし次の瞬間──
広場じゅうの導管が、同時に震えた。
街の屋根がわずかに揺れ、人々が耳を押さえた。
“騒音”ではない。“名前のような響き”が街全体をなぞっていく。
ツムギは足を止め、天を振り返る。
音柱の裂け目の霧が、塔の方へ、さらに細く伸びていく。
街と塔、そして封印の境界が、またひとつ揺らいだ。
〈来い〉
ツムギだけに聞こえる声が、胸の骨の裏を叩いた。
封印層は、ツムギを通して街と入れ代わろうとしていたが、抗えない“何か”が、そこにはあった。




