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鳴らない鈴  作者: 久賀 広一
2章 名を呼ぶ底
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第5話 音柱の裂け目



 塔を出た瞬間、ツムギは胸の奥で“ふたつの律”がこすれ合うような違和感を覚えた。

 朝の光は穏やかだが、風の底に細いざわめきが混じっている。街路のどこかで、誰かが驚きの声を上げ、それがすぐ喧騒へ紛れた。


 広場へ出ると、皆が同じ一点──塔の前庭に立つ〈音柱〉を見つめていた。

 昨夜まで静かだった記録の石筒が、薄い霧をまとって微弱に震えている。


 コハクがツムギの前に出て、測音石を掲げた。

 針が跳ね、震え、そして──止まった。


「位置が……ずれてる?」

 少女の呟きは、困惑というより“理解不能”に近かった。


 音柱の周囲では響衛たちが円を組み、人々を外へ誘導している。

 表情に焦りはないが、誰もが直感していた。

 これは昨夜の導糸の乱れとは別物だ。


 ナドがゆっくりと歩み出て、杖を軽く石へ触れさせた。

 その瞬間、広場全体がひと息ぶんだけ“凪いだ”ように見えた。

 そして──


 〈名を、返せ〉


 はらに直接とどくような音だった。

 街路の空気そのものが、名前のような響きを一度、かすかに震わせた。


「……師匠。封印層の“声”と同じ……」

「いや、これは音柱の“呼応”だ。塔の下で起きていることに、古い街の記憶が反射している。隠された過去としても、どこかに意思はのこっている」


 ナドの声は落ち着いていたが、杖を握る手は白かった。


 ツムギが音柱へ近づくと、石筒の表面に、昨日まではなかった深い裂け目が走っているのが見えた。

 そこから漏れ出す霧は深紅──封印層の導糸と同じ色。


「塔だけじゃない。街の“記憶”まで、侵されはじめてる……」

 コハクの声が震える。


 ツムギは裂け目へそっと手を伸ばしかけ、すぐに止めた。

 “声”がしたからだ。


 〈ひもじに綴られた名は、いつわり〉

 〈本当の名は、地下に眠っている〉


 胸がざわつく。

 先ほど、封印層で触れられた足首の感覚が、わずかに疼いた。


 ナドが言う。

「……封印層の“主律しゅりつ”が、街を通して道を探っている。皆で作り上げ、柔軟さに富む塔の拍とは違って、恣意的で古く強い、“名を持った律”だ。道がつながれば、すべてが別の存在に上書きされる」


 その時──

 音柱の裂け目から、砂混じりの風ような音がした。

 深紅の霧がうねり、広場の石畳へ薄く広がる。

 まるで“探すように”。


「ツムギ、下がって!」

 コハクが手を掴む。

 だがツムギは動けなかった。霧が肩に触れた瞬間、胸の裏で“誰かの心臓”が打ったように感じた。


 〈鍵〉

 〈おまえの名を寄こせ〉


 ツムギは息を呑む。

 ナドは杖を鳴らし、響衛に向かって怒声に近い声を放った。


「広場を封鎖しろ! 音柱は塔と同じ状態だ、触れるな!」


 響衛たちが人の波を押し返し、広場は徐々にき始めた。

 だが、音柱の裂け目は逆に広がり、霧は塔の方へ伸びはじめる。


「……封印層と、街の記憶が引き合ってる」

 コハクが震える声で言う。

「拍じゃなくて、“名”で……」


 ツムギはたまらず叫んだ。

「師匠、これ……塔の拍よりも古い、もっと根元の──」


「そうだ。“根律こんりつ”だ。」

 ナドはツムギを鋭く見つめ、静かに告げた。

 「封印層の主律が、街の隠された記憶と、塔の響路を“名の流れ”でつなごうとしている。

  このままでは、塔の心臓は上書きされる」


 ツムギの胸が強く鳴った。

 塔の拍と街の息が混線し、その奥で、もっと深い“呼び声”が蠢いている。


 〈鍵よ〉

 〈おまえが開けるのだ〉


 その瞬間、音柱の裂け目がひときわ明るく脈打った。


 ツムギは振り返り、ナドとコハクを見た。

「……師匠、僕……何かにつながれている気がする。封印層の“誰か”に呼ばれてる」


 ナドは目を細めた。

「ツムギ。皮肉にも、おまえの透声が、“封印の名”に届いてしまったのかもしれん。だが絶対に触れるな」


 しかし次の瞬間──


 広場じゅうの導管が、同時に震えた。

 街の屋根がわずかに揺れ、人々が耳を押さえた。

 “騒音”ではない。“名前のような響き”が街全体をなぞっていく。


 ツムギは足を止め、天を振り返る。


 音柱の裂け目の霧が、塔の方へ、さらに細く伸びていく。

 街と塔、そして封印の境界が、またひとつ揺らいだ。


 〈来い〉


 ツムギだけに聞こえる声が、胸の骨の裏を叩いた。


 封印層は、ツムギを通して街と入れ代わろうとしていたが、あらがえない“何か”が、そこにはあった。




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