第4話 侵蝕の律
塔の奥で鳴っていたはずの音が、急に遠ざかった。
ツムギの足を絡め取っていた影は、裂け目の奥へ引くように消えていく。
だがその残滓は、あたりの空気に溶けるように漂い、“塔の内側の律”を静かに書き換えていった。
コハクはツムギの腕を掴んだまま、息を荒くしていた。
「…いまの、本当に何なの…?
音じゃない、影でもない…“生きものの源流”みたいな…」
少女は測音石を見つめた。
針は、壊れたようにぐらついたまま戻らない。
通常なら測定が完了すれば静まるはずの計器が、“終わっていない” と告げていた。
ナドは封印の裂け目に手を伸ばさず、ただその空間を睨みつけた。
「……侵蝕が始まった。塔と封印層の境界が曖昧になっている。このままでは、“塔そのものが過去の塔へと引き戻される”」
ツムギは胸の奥に奇妙なざわつきを感じていた。
足首に触れた影の感覚が、まだ残っている。
冷たさではなく、誰かの指が残した“意図”のようなものが、皮膚の下をゆっくりと移動しているようだった。
「…ツムギ、どこか痛む?」
コハクが不安そうに覗き込む。
「痛くはない。でも…変だ。さっきの声が、まだどこかで続いている気がするんだ」
ツムギは胸に手を当てた。
心臓が拍を刻んでいる。
だが、その後ろで、もう一つの律が微かに鳴っていた。
〈来れる〉
〈おまえなら〉
その囁きは、言葉というより“意思そのもの”に近い。
ナドが警戒するように呟く。
「……封印層の“中身”は、我々のような皆で作り上げた拍ではなく、《主律》を持っている。
塔よりも古く、塔よりも強固な力だ。
拍を支配する仕組みそのものが違う」
コハクの表情が強張る。
「じゃあ、この塔が律に、上書きされるってこと?」
「おそらくな。“街の声”によって創り上げられた塔の心臓が、《主律》に触れれば……塔は別の存在に変質する。桁違いの年月が蓄積されているんだ」
塔の上層で、新たな動きがあった。
壁の導糸がざわめき、その奥側から、足場の不安を感じるような、微弱な底揺れがもたらされる。
見た目にはほとんど変化はない。──しかし──
ツムギはハッと顔を上げた。
「…街だ!街の方に、何かが…!」
塔の吹き抜けから、遠い叫びが聞こえた。
それは悲鳴のようであり、驚きのようでもある。
理解できない“言葉の塊”が発せられていた。
ナドは険しく振り返る。
「行くぞ。封印層に、ここで手を入れるわけにもいかん。塔の外で起きている現象を抑えれば、何かが変わるかもしれん」
師は響兵の上位であるきツムギとコハクは頷き、階段へと駆け出した。
だがツムギの背後では、封印層の裂け目がわずかに震え、まるで“逃がす気がない”ように音もなく蠢いた。
〈来い〉
〈鍵よ〉
囁きは、走り去るツムギの背中に貼りついたままだった。




