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鳴らない鈴  作者: 久賀 広一
2章 名を呼ぶ底
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第4話 侵蝕の律


 塔の奥で鳴っていたはずの音が、急に遠ざかった。

 ツムギの足を絡め取っていた影は、裂け目の奥へ引くように消えていく。

 だがその残滓は、あたりの空気に溶けるように漂い、“塔の内側の律”を静かに書き換えていった。


 コハクはツムギの腕を掴んだまま、息を荒くしていた。

 「…いまの、本当に何なの…?

  音じゃない、影でもない…“生きものの源流”みたいな…」

 少女は測音石を見つめた。

 針は、壊れたようにぐらついたまま戻らない。

 通常なら測定が完了すれば静まるはずの計器が、“終わっていない” と告げていた。


 ナドは封印の裂け目に手を伸ばさず、ただその空間を睨みつけた。

 「……侵蝕が始まった。塔と封印層の境界が曖昧になっている。このままでは、“塔そのものが過去の塔へと引き戻される”」


 ツムギは胸の奥に奇妙なざわつきを感じていた。

 足首に触れた影の感覚が、まだ残っている。

 冷たさではなく、誰かの指が残した“意図”のようなものが、皮膚の下をゆっくりと移動しているようだった。


 「…ツムギ、どこか痛む?」

 コハクが不安そうに覗き込む。

 「痛くはない。でも…変だ。さっきの声が、まだどこかで続いている気がするんだ」

 ツムギは胸に手を当てた。

 心臓が拍を刻んでいる。

 だが、その後ろで、もう一つの律が微かに鳴っていた。

 〈来れる〉

 〈おまえなら〉

 その囁きは、言葉というより“意思そのもの”に近い。


 ナドが警戒するように呟く。

 「……封印層の“中身”は、我々のような皆で作り上げた拍ではなく、《主律しゅりつ》を持っている。

  塔よりも古く、塔よりも強固な力だ。

  拍を支配する仕組みそのものが違う」


 コハクの表情が強張る。

 「じゃあ、この塔が律に、上書きされるってこと?」

 「おそらくな。“街の声”によって創り上げられた塔の心臓が、《主律》に触れれば……塔は別の存在に変質する。けた違いの年月が蓄積されているんだ」


 塔の上層で、新たな動きがあった。

 壁の導糸がざわめき、その奥側から、足場の不安を感じるような、微弱な底揺れがもたらされる。

 見た目にはほとんど変化はない。──しかし──


 ツムギはハッと顔を上げた。

 「…街だ!街の方に、何かが…!」

 塔の吹き抜けから、遠い叫びが聞こえた。

 それは悲鳴のようであり、驚きのようでもある。

 理解できない“言葉の塊”が発せられていた。


 ナドは険しく振り返る。

 「行くぞ。封印層に、ここで手を入れるわけにもいかん。塔の外で起きている現象を抑えれば、何かが変わるかもしれん」


 師は響兵の上位であるきツムギとコハクは頷き、階段へと駆け出した。

 だがツムギの背後では、封印層の裂け目がわずかに震え、まるで“逃がす気がない”ように音もなく蠢いた。


 〈来い〉

 〈鍵よ〉


 囁きは、走り去るツムギの背中に貼りついたままだった。






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