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鳴らない鈴  作者: 久賀 広一
2章 名を呼ぶ底
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第3話 影音の侵入


 封印層へとつづく暗がりは、もはや壁の向こう側にとどまっていなかった。

 ゆっくりと、塔の内部へ“這い込む”ように流れ込んでくる。

 深紅の導糸が裂け目から伸び、その隙間を滑るように黒い影が流れた。


 ツムギは息を飲んだ。

 影は煙ではない。

 液体でも、気体でもない。

 “音の形を失った何か”が、空気の中でよどみのように存在していた。

 耳や目ではなく、皮膚で感じる種類の気配だ。


 「…出てきてる」

 コハクはツムギを庇うように前へ出て、測音玉を握りしめた。

 少女の指先が震えている。

 針は通常の範囲を超えて振れ、警告の赤を灯していた。──安定を超えた律動。


 ナドは一歩も動かない。

 封印層から伸びてくる影音えいおんの“輪郭”を、じっと見つめていた。

 「…これは、拍ではないし、単なる律でもない。“意志に似た波”だ。自分を理解した者へ、寄ってくる性質がある」


 「理解って……僕、何も……」

 ツムギの言葉は途切れた。

 影の先端が、ツムギの足元に触れたからだ。


 冷たい。

 それもただの冷たさではなく、触れられた部分の感覚が、一瞬だけ“誰かのもの”にすり替わった。

 少年の心臓が大きく跳ねた。


 〈おまえの声は、ここまで“届いた”〉


 ツムギは思わず後ずさった。

 耳ではなく、骨の内側で響く声。

 昨日から聴こえ続ける、その“深層の呼び声”だった。


 「ツムギ、離れて!」

 コハクが少年の肩を掴む。

 少女の手は強い。

 だが、影音はさらに伸び、今度はツムギとコハクを同時に包むように広がった。


 壁全体が震えた。

 塔の内部で保たれていた心臓の鼓動が、一度崩れ、歪んだ形で組み直されていく。

 まるで“べつの塔の力”を上書きされるようだった。


 ナドが鋭く叫ぶ。

 「離れろ、二人とも! 封印層の“外部”にいる限りはまだ安全だ!」


 その一言を聞き、コハクはツムギを強引に引き離した。

 だがその瞬間――

 封印層の暗闇が、まるで怒りを見せるように波打ち、ツムギの足首へもう一度絡みついた。


 〈逃げるな〉

 〈鍵は、おまえだ〉


 ツムギの視界が、一瞬だけ白く飛ぶ。

 中空が遠ざかるような感覚。

 封印層の底から、巨大な存在がこちらを“とらえている”気配がした。


 コハクが叫ぶ。

 「師匠! これ…引きずられてる!」


 ナドの顔は血の気が引いていた。

 「…封印層は開いていない。

  だが“中身”がもうこちら側を掴んでいる…!」


 塔の上層で、鐘がひとつ鳴った。

 自然な鐘の音ではない。

 街の誰かが鳴らしたものでもない。

 塔そのものが、深層の波に反応して“揺れて”出した音だった。


 街の平穏に、これまでにない力が入りこんで、歪みが生まれ始める。

 屋根の瓦が震え、人々の耳に“何かの名前のような音”がささやくように届いた。


 ──封印層が、世界に侵入し始めていた。





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