第3話 影音の侵入
封印層へとつづく暗がりは、もはや壁の向こう側にとどまっていなかった。
ゆっくりと、塔の内部へ“這い込む”ように流れ込んでくる。
深紅の導糸が裂け目から伸び、その隙間を滑るように黒い影が流れた。
ツムギは息を飲んだ。
影は煙ではない。
液体でも、気体でもない。
“音の形を失った何か”が、空気の中で淀みのように存在していた。
耳や目ではなく、皮膚で感じる種類の気配だ。
「…出てきてる」
コハクはツムギを庇うように前へ出て、測音玉を握りしめた。
少女の指先が震えている。
針は通常の範囲を超えて振れ、警告の赤を灯していた。──安定を超えた律動。
ナドは一歩も動かない。
封印層から伸びてくる影音の“輪郭”を、じっと見つめていた。
「…これは、拍ではないし、単なる律でもない。“意志に似た波”だ。自分を理解した者へ、寄ってくる性質がある」
「理解って……僕、何も……」
ツムギの言葉は途切れた。
影の先端が、ツムギの足元に触れたからだ。
冷たい。
それもただの冷たさではなく、触れられた部分の感覚が、一瞬だけ“誰かのもの”にすり替わった。
少年の心臓が大きく跳ねた。
〈おまえの声は、ここまで“届いた”〉
ツムギは思わず後ずさった。
耳ではなく、骨の内側で響く声。
昨日から聴こえ続ける、その“深層の呼び声”だった。
「ツムギ、離れて!」
コハクが少年の肩を掴む。
少女の手は強い。
だが、影音はさらに伸び、今度はツムギとコハクを同時に包むように広がった。
壁全体が震えた。
塔の内部で保たれていた心臓の鼓動が、一度崩れ、歪んだ形で組み直されていく。
まるで“べつの塔の力”を上書きされるようだった。
ナドが鋭く叫ぶ。
「離れろ、二人とも! 封印層の“外部”にいる限りはまだ安全だ!」
その一言を聞き、コハクはツムギを強引に引き離した。
だがその瞬間――
封印層の暗闇が、まるで怒りを見せるように波打ち、ツムギの足首へもう一度絡みついた。
〈逃げるな〉
〈鍵は、おまえだ〉
ツムギの視界が、一瞬だけ白く飛ぶ。
中空が遠ざかるような感覚。
封印層の底から、巨大な存在がこちらを“捉えている”気配がした。
コハクが叫ぶ。
「師匠! これ…引きずられてる!」
ナドの顔は血の気が引いていた。
「…封印層は開いていない。
だが“中身”がもうこちら側を掴んでいる…!」
塔の上層で、鐘がひとつ鳴った。
自然な鐘の音ではない。
街の誰かが鳴らしたものでもない。
塔そのものが、深層の波に反応して“揺れて”出した音だった。
街の平穏に、これまでにない力が入りこんで、歪みが生まれ始める。
屋根の瓦が震え、人々の耳に“何かの名前のような音”がささやくように届いた。
──封印層が、世界に侵入し始めていた。




